昭和天皇の愛したアケボノスギ



昭和天皇の愛したアケボノスギ(メタセコイア)

橋本 秀雄

 

わが国のたちなほり来し年々に あけぼのすぎの木はのびにけり

 

これは今年正月、安倍首相が年頭所感の冒頭に引用した昭和天皇の御製です。昭和六二年(一九八七)の新年歌会始で公表されました。

その年の御題は「木」で、陛下がことのほか好まれた「アケボノスギ(メタセコイア)」を詠み込まれたものです。

この御製は、昭和二〇年(一九四五)、未曾有の敗戦により廃墟となった我が国が、国民の努力により目覚ましく復興を遂げる姿と御所に植えられたアケボノスギの順調な成長ぶりを重ねられての感慨を表現されたものと言われています。

また昭和六三年(一九八八)の御不例のおりにも、病室で「あの資料(発刊予定の『皇居の植物』に「アケボノスギ」を掲載するためのもの)はどうなっているか」と尋ねられ、「アケボノスギを属名だけでなく、学名できちんと記しておくように」とか「和名はアケボノスギで統一しておくように」と指示された言葉が残っています。このようにアケボノスギに関わる昭和天皇のエピソードがいくつか残っています。

「アケボノスギ」は昭和一六年(一九四一)「メタセコイア」の和名で日本の学者が設立した植物でした。提唱したのは当時、京都帝国大学講師の三木茂博士でした。それまで第三紀の地層からセコイアやヌマスギとされる化石が各地で採集されていましたが、博士はその葉や球果の特徴から、それらとは別の植物であると見抜き、新しくMetasequoia属(Metaはギリシャ語で〝後の〟の意)を立て新種名を記載したのです。その証拠となった化石の一つが岐阜県土岐市の土岐口陶土層から出た、メタセコイアの小枝の化石でした。それは七〇〇万年近くも経つというのに非常に生々しく、博士は特に植物遺体と呼んでいます。その新種の記載論文は世界に送付されたのですが、ちょうど大東亜戦争が始まり、多くは届きませんでした。

それから五年後、昭和二一年(一九四六)何と三木博士が名付けた化石植物「メタセコイア」が中国の奥地(現湖北省利川市磨刀渓)で立派な大木として見つかったのです。一〇〇万年前に絶滅したとされていたメタセコイアが生き延びていたわけです。

まず昭和一八年(一九四三)、林務官の王戦氏が奇妙な大木があるとの情報を得て調査をします。王氏はそれをスイショウ属の植物と考え、標本を国立中央大学の鄭万鈞教授に届けました。鄭教授は新しい植物だと見抜き、静生生物学研究所の胡先驌博士に意見を求めました。胡博士はやはり新種の植物だと判断し、一端はPingiaという名を付けました。しかし、幸い胡博士は三木博士の論文を見ており、三木博士が発見したメタセコイアと同一のものであることを確認し、鄭教授と連名で新種名を Metasequoia glyptostroboides Hu et Chengとして発表しました。

このニュースは「生きた化石」の発見として世界に広がり、そこに日本の学者がかかわっていたことで多くの日本人は誇りを感じました。古橋広之進選手の世界記録と湯川博士のノーベル賞受賞とともに戦後日本の明るいニュースとなりました。

現生メタセコイアの発見の報に接するや、二人の米国の学者が動きました。一人は先のメリル博士で、昭和二二年(一九四七)、胡博士に資金を提供して種子を取り寄せ、それを世界七六の研究機関や研究者に提供しています。日本へは東京大学の原寛博士に送られました。

もう一人はカリフォルニア大学の古植物学の世界的権威ラルフ・ワークス・チェイニー博士でした。胡博士の知らせを聴いて昭和二三年(一九四八)、自ら中国の自生地を訪れ、化石植物の生き残りであることを確認し、多数の種子を持ち帰ります。博士はセコイアより古い特徴をもつメタセコイアに「Dawn Redwood(夜明けの米杉)」という英語名(和名アケボノスギの元)をつけ、サンフランシスコ郊外の大学農園で種を撒き、大切に育てたのです。すると種子は発芽し、立派な苗へと育ちました。博士は生きた化石メタセコイアを再び繁栄させたいと考えたのでしょう。苗と種子を中国の気候に近い日本にも送ることを決意しますが、大学の同僚小圃千浦教授の「最古の植物は世界最古の王室で、しかも科学者である日本の天皇陛下が最もふさわしい」という進言に心を動かされたと言います。

昭和二四年(一九四九)一〇月、サンフランシスコで金光教の教師をしていた福田美亮氏が一時帰国するというので、彼に種と苗を託しました。氏は宮内庁を訪れて、献納の手続きをとり、無事に種子と苗は陛下の手元に届きました。

『昭和天皇実録』にはそのことが次のように記録されています。

「この日(四日)、米国カリフォルニア大学の教授ラルフ・ワークス・チェイニー〈古生物学〉よりメタセコイア〈アケボノスギ〉の苗木と種子の献上をお受けになり、翌五日、宮内庁長官田島道治に書簡をもって同人への謝意を伝達せられる。なお、一〇日午後には苗木を花蔭亭脇の林間に移植される。」

翌二五年(一九五〇)、チェイニー博士はGHQ天然資源局の用務で来日し、昭和天皇に招かれて拝謁することになりました。その時、二人は同じ科学者として意気投合し、懇談は長時間に及んだといいます。博士は陛下にお会いしてすっかり心酔し、帰国後の生活を日本式にし、みそ汁、梅干し、納豆、のりなどをメニューに加え、リビングにはゴザを敷いていたとのことです。

昭和五〇年(一九七五)、天皇皇后両陛下は戦後初となる訪米を果たされます。その時、フォード大統領に成長した「アケボノスギ(メタセコイア)」の写真を贈り、感謝の意を伝えておられます。陛下のお気持ちの中には我が国が念願の復興を果たし、経済大国と言われるまで成長していることを喜び、戦後の米国の寛容と援助に感謝の気持ちを表そうとされたのです。

また個人的に親交を温められたチェイニー博士(一九七一年、逝去。七一歳)への哀悼の意も込められたことでしょう。

現在、日本では公園、学校、道路など各地でメタセコイアの姿が見られます。

これはチェイニー博士などがメタセコイアの保存運動を進めたからです。

チェイニー博士は三木博士などに協力を呼びかけ、それに応じて三木博士は「メタセコイア保存会」(会長、京都大学木原均博士)を設立し、苗木一〇〇本の寄贈を受けています。

苗木は京都大学や大阪市立大学の農場で育てられるとともに挿し木で増やされ、希望者に安価で提供されました。

メタセコイアが日本に来て七〇年近くが経ちました。苗での移植第一号の皇居吹上御所のメタセコイア(アイキャッチ画像)は樹高が二〇㍍以上、幹の周りも二㍍を越えています。また東御苑で生育した三本のメタセコイアが平成元年秋、昭和天皇の眠る八王子市の武蔵野陵に移植されました。

戦前から戦後にかけ、日米中の科学者が協力して甦らせたメタセコイアは、昭和天皇をはじめとする科学者の自然探求の精神や、学問を通じた信賴と友情のシンボルと言ってもよいのではないでしょうか。

(『ぎふの教育』第180号より、アイキャッチ画像は『皇居の植物』保育社より転載 H29,1,29記)

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