平泉隆房氏遺著『寒林夜話』に寄せて
京都産業大学名誉教授 所 功
1、平泉寺白山神社式年大祭の日に
明るく朗らか平泉隆房氏が満七十歳で急逝されてから、はや十ヶ月近くになる。この間、長男紀房様をはじめご家族ご関係の方々にとって、大変な日々であったにちがいない。
その最たるものは、二十七世に亘り奉仕される平泉寺白山神社において〝白山の女神〟と仰がれる「河上御前」御神像(木彫)を三十三年ごとに開帳する式年大祭を、この五月二十三日から二十五日まで斎行されることであった。
それは二十六世の隆房氏が数年前から綿密に準備して来られたが、昨年八月十六日帰幽されてから当代に引き継がれて、見事に実施された。その盛況は、地元福井のテレビや新聞に報じられ、三日間の参詣数は全国から二十二万人を越えたという。
今回、私は家内介護のため参上できなかったが、前回(平成四年)二十五世洸(あきら)宮司のもとで行われた式年大祭の受付などを、京都の小川常人氏(当時「藝林会」代表)らとお手伝いさせて頂いたことを憶い出しながら遙拝していたところ、初日の夜、お手伝いに参った従弟から「紀房宮司さんの真心こもった堂々たる祝詞奏上に、みんな感動した」とのメールがあった。まことにありがたいことである。
しかも、当日付で隆房氏の遺著『寒林夜話』が出版された(A6判二七八頁、カラー口絵八葉。錦正社、頒価二三〇〇円+税)。全文の内容はもちろん上品な装丁にも、読み易い組み方にも、丁寧な編集と索引にも、感心するほかない。
2、「藝林会」関係の電話とメール
この『寒林夜話』を紀房様から先日(六月一日)お送り賜ったので、直ちに通読させて頂いた。そこで、ここには普通の新刊紹介と異なって、かなり個人的な隆房氏の思い出、および本文に関連することなどを書き留めておきたい。
隆房氏(昭和二十九年二月生まれ)のことは、早くから伝え聞いていたが、直接お会いして一緒に学ぶようになったのは、昭和四十七年(一九七二)四月、皇學館大学(文学部国史学科)の第十一期として入学されてからである。その春から助教授となり、「日本史概説」を担当中の私(30)は、同氏の祖父澄博士(77)著『少年日本史』を教科書にして一年次生に毎週講義する、という甚だしんどい経験をした。
しかし、まもなく同氏は中世史を専攻され、同五十年(一九七五)四月から私は文部省(教科書調査官)へ転出したので、ほとんど会えなくなった。それが再開したのは、平成十八年(二〇〇六)からである。その五月、「藝林会」代表の時野谷滋氏(81)が病死されたので、同元年から編集長を務めてきた私が代表を引き受けるほかなくなった。
けれども、この学会は昭和二十五年(一九五〇)澄博士(58)を中心に創立された学術団体であるから、隆房氏(52)の代行として暫く預かるにすぎないと心得、年二回の会誌編集についても、毎秋の学術大会についても、必ず相談して意見を承り諒承を得てきた。それは当初しばらく手紙の遣り取りであったが、まもなく電話で済ませてよいことになり、やがてメールが多くなった。
その代表役は、「令和」御代替わり(二〇一九)を機として隆房氏(65)に引き受けて頂き、以後「会長」と改称した。しかしながら、それ以降も「藝林」の編纂や学術大会のテーマなどにつき、しばしば相談の電話やメールをくださった。その御声はいつも明るく様々な話題に及び、メールにも家内へのお心遣いまでかかれていた。
最後のメールは、昨年七月十日夜、同日昼に横浜で行われた市村真一博士(100)の告別式について報告したところ、直ちに雑誌『日本』でも追悼特集をするよう仲田昭一編集長と打ち合わせしているとの御返事があった。それは一時入院から自宅へ戻られた時だったことを、後で同夫人和美様から承って驚いた(それから一ヶ月足らずで他界された)。
3,「井内慶次郎氏の勧め」に応答
本書は、日本学協会編『日本』に平成二十一年(二〇〇九)二月号から令和四年(二〇二二)九月号まで連載された四十章(一~四〇)から成る。その一の冒頭に、執筆の動機について「井内慶次郎氏から「将来是非にもお祖父様平泉澄との話を、エッカーマン『ゲーテとの対話』(初稿一八三六)のやうにまとめて我々にお示し下さい」との強い懇請を受けた」ことによるとある。
この井内氏に関する説明が殆どないので、少し補わせてもらうと、同氏(一九二四~二〇〇七)は、旧制広島高校を経て、東大法学部を卒え、昭和二十二年から文部省一筋に務められた。私が同省に在職した同五十年から六年間、当時は、大学局長、大臣官房長、学術国際局長から事務次官という要職で多忙を極めておられたから、省内で私的に会うことは一度もなかった。
ただ、同五十五年(一九八〇)定年退官した後に隣接の国立教育会館の館長へ移られてからは、時野谷滋主任教科書調査官と共に何度も会食しながら、色々はことを承った。そのうち最も印象に残っているのは、「自分も終生の恩師と仰ぐ平泉先生の学統を正しく受け継いでいくため、洸さんと隆房さんを日本学協会の有志が心を一つにして支え守り続けることで、それは、誰彼の指示を待つんじゃなく、各自でよく考えて出来ることをやればよい」と明言されたことである。
それから、二十年ほど経った平成十二年(二〇〇〇)四月、井内氏(96)の推薦により靖國神社の崇敬者総代を拝命した私(58)は、出来たての編著『名画に見る国史の歩み』(近代出版社)を贈呈した。これは昭和八年(一九三三)皇太子殿下(平成の天皇陛下)御誕生記念に十年ほどかけて作成された「国史絵画」全七十八点(現在神宮徴古館蔵)のカラー写真に八名で解説を加えたものである。
その時「武家の活躍」八点の解説を隆房氏(46)に依頼して玉稿を載せたが、それを喜ばれた井内氏から電話があった。それは隆房氏にも伝えられていたらしく、本書(二九頁)によると、井内氏は「この本・・・からもし一枚を選ぶとすれば、それは元寇の際、伊勢の神宮に「日本(ひのもと)のそこなはるべくば、御命を召すべき」と「殉国の御祈願をされた」亀山上皇の画だと思ふ。これは・・・みえないものを絵にしたものであり、そのやうな感性を戦前の日本人が持ち合わせていた証でもある」との卓見を示されたという。
4、「英雄」を描いた徳富蘇峰
どの章も、澄博士の貴重な直話を嫡孫の隆房氏が的確な名文により纏められた希有な記録であるから、簡単に紹介することなど烏滸がましく、多くの方々が全文を熟読玩味して下さることを願うほかない。ただ、昨秋から取り組んでいる徳富蘇峰翁に関して、「七、英雄の著『近世日本国民史』」のみ採りあげ、少し付言させて頂こう。
蘇峰翁(一八六三~一九五七)は、澄博士(一八九五~一九八四)より三十二歳(ほぼ一世代)上であり、すでに明治二十年前後から多彩な言論活動などで名声を博しておられた。ところが、大正七年(一九一八)七月、澄博士(23)が東京帝国大を卒業された時、翁は(56)『近世日本国民史』を民友社「国民新聞」に連載し始められたのだから、「歴史家として・・・踏み出したのは同じ時」になる。
しかも、蘇峰翁の著作動機は「明治天皇の大御代を叙述して後世に伝へる」というところにあること、それを信長・秀吉・家康から書き始め、木戸・西郷・大久保で閉じ、「不可能を可能にする」偉大な英雄の真面目を明らかにされていること、それを澄博士が高く評価され、特に「西郷の力は大きい・・・英雄なのだ」とよく話しておられたという。
このように格別な信頼と互敬の関係を築かれた両者は、昭和二十年(一九四五)の敗戦に伴って日本を占領統治したGHQにより言論追放処分をされると、志操を堅持し、旧交を深められた。その実情は、昭和三十二年(一九五七)十二月、蘇峰翁(94)の長逝直後、澄博士(62)ご自身が雑誌『日本』十二月に掲載された「徳富蘇峰先生」をはじめ、同四十五年(78)同誌に三回連載された「徳富先生の書簡」で明証されている。
さらに、両者は晩年まで次世代の育成にも協力して取り組まれた。たとえば、昭和二十七年(一九五三)四月の講和独立により、追放を解除されると、翌年五月澄博士(58)は、蘇峰翁(90)を熱海の山荘まで訪われるのみならず、門下の近藤啓吾氏(32)など青年有志の指導を頼まれた。それに応えるため翁は、充分な準備をした上で、「日本の行くべき道」と題する講義を懇切に行っておられる。その全文は、近刊の徳富蘇峰著『国史より観たる皇室』(筆者解説補注、藤原書店)に付載する。
一方、澄博士は蘇峰翁から遺託された『近世日本国民史』全百巻の校訂と未刊分の出版を完成された後、『少年日本史』(A5判七四四頁、時事通信社刊。のち改題『物語日本史』講談社学術文庫三冊)を仕上げられた(75)。
この大著は、「今後の日本を担うべき少年」たちのために「残る全力をあげて一気に之を書」かれた(「はしがき」)のである。その影響は極めて大きく、たとえば経団連の石坂泰三氏も、愛読して土光敏夫氏に精読を勧めたと『日本経済新聞』のインタビューで語っていたことも、本書(二四〇頁)所引の資料により知られる。こうしたエピソードまで聴き確かめて伝えられた隆房氏に、更めて感謝を申し上げたい。 (令和七年六月九日記)