平成二十六年(2014)に入って、アッという間に三ヶ月経ち、はや四月、学年暦の新年度を迎えた。私にとっては、七十年住み慣れた郷里(岐阜県)から娘家族の近く(神奈川県)へ移り住んで三年目に入ったが、幸い家内共々健康に恵まれ、楽しく仕事に取り組めることを感謝している。この年度初めの身辺雑事をメモしておこう。
その一
『三方よしの人間学』に叡智満載
四月一日(火)、朝六時半に国府津駅を乗車、東京上野で乗り換えて南柏駅下車、九時丁度にモラロジー研究所到着(毎週一回こんな往復を繰り返している)。十時より廣池千九郎記念講堂で行われる年度初めの朝礼に出席した。
その席で廣池幹堂理事長(千九郎博士玄孫)から、二年後に学祖千九郎博士(1866~1938)生誕一五〇年を迎えるに先立ち、研究所(公益財団法人)と学園(大学・高校・中学・幼稚園)で進行中・新展開の諸事業などについて、数百名の参会者を元気づける報告と説明があった。
その際に必読を勧められたのが、三月にPHP研究所から出されたハンドブック『三方(さんぽう)よしの人間学』(文庫版240ページ・定価千円)である。これは副題に「廣池千九郎の教え105選」というとおり、大正年間に身心とも苦難を体験し克服して「道徳科学」(モラロジー)を樹立した廣池博士が、論文や講演で説き示された教えを要約し、「道徳に生きる」「日々の心得・行動」「人との接し方」「処世術」「改善の方法」「事業の心得」という八章に分け、105項目各2ページに纏めたものである。
従って、パラパラとめぐりながら気になる項を拾い読みするもよく、章ごとにじっくり読み進むのもよい。そこに通底しているのは「より良く生きるための指針」であり、心から幸せと思える生き方をする叡智であるが、そのキィ・ワードこそ「三方よし」にほかならない。
この「三方よし」という考え方は、江戸時代から近江商人の経営理念であったとみられる。しかし、それを「自分よし、相手よし、世間(第三者)よし」という的確な表現を用い、モラリッシュな人間の生き方として、昭和初年から説き始めたのは廣池千九郎博士である。
それを聴講した滋賀県下の熱心なモラロジアンを通して同十年前後から広まった経緯が、数年前に当研究所の道徳科学研究センター長大野正英教授の研究で立証され、それが彦根市の「三方よし研究所」でも公認されている(『三方よし研究所所報』「三方よし」36号参照)。
次に同日午後一時から、新年度初回の「現代倫理道徳研究会」に出席した。口頭発表は、まず橋本富太郎研究員による「賀陽宮恒憲王と廣池千九郎」、ついで犬飼孝夫主任研究員による「幸福論研究:国際幸福デーをめぐって」である。
このうち前者は、賀陽宮邦憲王(神宮祭主)の長男恒憲王(1900~78)が、昭和二十年三月十二日に陸軍大学校長として参内した際、一歳違いの昭和天皇に早期終戦の聖断を進言されたこと、その背景に同十二年二月から翌年四月まで賀陽宮邸に招かれ御進講に全力を注いでいた廣池千九郎の影響が認められること、この宮様が戦後臣籍降下されてから廣池学園内に住まわれて誠実な生涯を全うされたこと、などを一次史料で立証した。
これは、戦前の宮家皇族、戦後の旧皇族に関する具体的な事例研究として、浅見雅夫氏の大著『伏見宮―もうひとつの天皇家』(講談社)に続く貴重な成果である。しかも、その御子孫が今も健在で重要なお仕事をされていることなども留意しておきたい。
ついで後者の発表も、昨年国連が定めた「幸福の日」(三月二十日)に関する最新情報の紹介で、幸せとは何かを考える極めて有益な機会であった。しかも、それに対して研究顧問の服部英二先生(地球システム倫理学会会長)および伊東俊太郎先生(東大・麗澤大学名誉教授)から、鋭い懇切な質疑と助言が寄せられた。
この研究会では、毎回、若い研究員から最新の研究成果を聴き、また両碩学から広く深い助言と指導を賜ることができる。新年度早々、真に充実した一日であった。
ちなみに、モラロジー研究所は公益財団法人であるが、その研究部門の道徳科学研究センターは文部科学省から研究機関として公認され、アカデミックな紀要・所報などを出し、このような研究会を毎月2回平均励行している。
そのニ
「累代教育」の身近な心がけ
四月四月(金)、今日は満四十五回目の結婚記念日、しかも本日から八日まで皇居内の乾通りが初めて一般公開されると聞き、家族で一緒に花見も兼ねて出かける予定であった。しかし、数日前から家内の花粉症が治らないので取り止め、撮り溜めたテレビ録画を何本も視た。
その一つは、英国のジョージ六世(在位1936~52)が吃音を克服された『国王のスピーチ』である。封切直後に映画館で観て感動したが、今回も国王の誠実さと王妃の心温る支援に、あらためて涙を禁じえなかった。
ちなみに、私は昭和四十四年四月四日、大垣の濃飛護国神社で田中卓先生御夫妻の媒酌により結婚式を挙げ、大垣駅前のレストランで細やかな披露宴を催した。
連れ合いとなった京子(旧姓菊池)は、半年前に京都の研究会で初めて出会い、帰途お茶を飲みながら意気投合し、この人なら母と仲良くやっていけると直感して年末に婚約した。そして春休みに挙式するために神社へ問い合わせたところ、この日なら空いていると言われ即決したが、双方の母から「何で四並びの日にしたの」と叱られた。しかし、披露宴で主賓の生真面目な久保田収先生が「今日は始終(四十)良し良しの真に結構な吉日でして……」と言われて、成程と皆大笑い。
それから私は伊勢と東京に各六年勤めたが、その十二年間、家内は原則毎週、郷里(岐阜県揖斐川町小島野中)へ金帰月来で母と農作業を共にし、近所と親戚の付き合いにも努めた。
その上、昭和五十六年に京都産業大学へ奉職してからは、私が家内の母とその兄の三人で妙心寺の近くに住んで金帰月来を続け、また家内は私の母と娘の三人で同居しながら岐阜聖徳学園(短大・大学)に専任で勤め通した。
このような二重生活は、傍目(はため)に大変と思われたかもしれない。しかしながら私は、結婚当初、娘を取られてしまったように思い寂しがっていた家内の母と十年近く(その兄とはさらに数年)過ごすことができた。
まして家内は、しっかり者の母と張りあいながら実の親子以上に仲良くなり、とりわけ平成五年に骨折で寝たり起きたり状態となった母を、十五年近く、親身に世話をしてくれた。その姿を見て育った一人娘は、平成十年に結婚して婿の勤務先(初め鹿児島)へ行ったが、まもなく生まれた孫を連れて、よく見舞いに来てくれた。
しかも、平成二十三年春、満三十一年間勤めた京都産業大学を定年退職した機会に、老夫婦の田舎住いを心配した娘家族が、現在の小田原へ来るように強く勧めてくれたので、思案の末に近所へ移った。そのおかげで、私は柏まで通い各地へ出かけやすくなり、家内は余暇に娘や孫とショッピングなどを楽しんでいる。
次に同日の夕食後、『WiLL』六月号用の原稿「両陛下の格別な“おかげまいり”―伊勢神宮親拝と剣璽御動座の意義―」(仮題)を書き始めた。そこへ近所にいる娘と孫二人が家内を元気づけに現われ、ワイワイおしゃべり。孫たち(中三と小六)は、今ジャニーズJr.に一番興味があるらしいけれども、私には珍紛漢紛で判らない。
ただ、何かの拍子に「おじいちゃん何を書いてるの」と尋ねるので、「三月二十六日、両陛下がお伊勢さんへお参りされた時に、黒い箱入りの宝剣と勾玉を奉じて行かれたことについて書いてるんや」と言うと、「それテレビで視たよ。おじいちゃんが何か言ってたけど、三種の神器とかいうのは何なの」と乗ってきた。
そこで、昨年監修した『古事記のよくわかる事典』(PHP研究所)を取り出し、勢いよく説明し始めたが、娘に「それじゃ小中学生にわからないよ」と笑われた。確かに長らく大学生を相手にしてきた私の話は固すぎて、誰にも判るように工夫する必要があろう。
それにしても、孫たちとの雑談はホンマに楽しい。小学校に勤める婿の話では、祖父母どころか親とすら口もきかない子が少くないという昨今、うちのようによく往き来して何でも言いあえるのは喜ばしい。
モラロジー研究所では「生涯教育から累代(るいだい)教育へ」を重要な基本テーマにしているが、世代を越えて大切なことを受け継いでいくにはどうしたらよいのか。それに正解はないであろうが、家族であれば別居していても、可能な限り直接に会ったり話す機会を多くして、ごく自然に親の思いや生き方を子や孫に伝えていくよう心がける必要があると思われる。
その三
大磯の澤田美喜と吉田茂の記念館
四月六日(日)、先週フジテレビから、四月十三日(日)夜七時から九時にBSフジで放映予定の特集番組「皇室のこころ2014年春」への協力を求められ、双方の都合により本日の昼、大磯プリンスホテルで一時間近くインタヴューの収録をした(放映には一部しか使われない)。
私に求められたテーマは「両陛下が式年遷宮の翌年、剣璽を伴って神宮へ親拝される理由と意味」であったから、『WiLL』用の原稿を要約して話したにすぎない。その聞き手ディレクターが大変よく予習していることに感心した。
この大磯は、毎週JRで通りながら、一度も降りたことがない。そこで、収録の前と後に、かねて訪ねたいと思っていた所へ立ち寄った。その一つが、大磯駅前の澤田美喜記念館である。
澤田さん(1901~1980)は、岩崎弥太郎の孫娘(久弥の長女)で、結婚して外交官の廉三氏(のち初代国連大使)とロンドンに滞在中、孤児院でボランティアとして奉仕したことがある。
その体験から、戦後駐留した米兵と日本人女性の間に生まれた混血孤児を救うために、岩崎家の大磯別邸で昭和二十三年「エリザベス・サンダース・ホーム」を開設。三十余年で約二千人の子供たちを立派に育てあげている。
その間に美喜さんは九州など巡って隠れキリシタンの遺品を数百点も収集した。それを通して、迫害に耐え抜いた人々の信仰に勇気づけられ、ホーム運営の困難も乗り切ったという。
この記念館は、美喜さんの帰天後、ホーム敷地の一角に新設されたもので、、二階が礼拝堂になっている。十時の開館早々訪ねて、一階で展示中の隠れキリシタン資料(踏絵・マリア観音像・十字紋様など)の多様さに驚くと共に、二階から聞こえてくる孤児たち数十人の賛美歌にも心打たれた。
もう一箇所は城山公園の海側に広がる旧吉田茂邸と庭園である。ここは茂氏(旧姓竹内)養父吉田健三(旧福井藩士、貿易商)の建てた別邸であり、茂氏が自邸として愛用。戦後の講和独立前後に外国貴賓を招くため和風に大増改築。ここで首相退任後も政財界人等と応接し、昭和四十二年(八十九歳)長逝している。
この本邸は、平成二十一年に失火のため消失して、目下再建中である。ただ、昭和二十七年の講和独立記念に建てられた内門は、類焼を逃れ、六十年ぶりに桧皮を葺き替えたところだという。その管理事務所にある休憩室で晩年の吉田さんを偲ぶビデオを視てから、庭園内を廻った。その一角に「七賢堂」がある。
これは、伊藤博文が小田原から大磯へ移築した滄浪閣に、明治三十六年(1903)三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通の肖像を掲げて祀った「四賢堂」に始まり、その没後、夫人の手で博文を加えて五賢堂となった。
それが戦後の昭和三十五年(1960)この吉田邸へ遷されてから、西園寺公望を加えた。さらに当主の没した直後、佐藤栄作氏の勧めで吉田茂氏も加えて「七賢堂」となり、今なお伊藤の命日十月二十六日ころに例祭が行われているという。
念のため、この七賢堂は偉人を合祀する邸内社である。吉田さんはキリスト教に理解を示していたが、クリスチャンではない。ただ妻の雪子さん(大久保利通の孫)がカトリックで、夫の没後洗礼を受けさせたという。
吉田さんが皇室を深く敬愛していたことは明らかである。たとえば、戦後の憲法に「象徴」という形であれ天皇制度の存続を可能にし、昭和天皇の退位論を却けて御留位を願い、また昭和二十七年十一月十日の立太子礼(今上陛下の成年式典)には、奉祝文で「臣茂」と称し、新聞記者に「総理大臣も天皇の臣だ」と答えている。
それのみならず、吉田さんが神道も大事にしていたことは、明らかである。たとえば、昭和二十六年九月、対日講和条約が締結されると(独立は翌年四月)、十月の靖国神社秋季例大祭に「総理大臣」として公式に昇殿参拝し(以後在任中、春も秋も参拝)、またGHQの「神道指令」により廃校となった神宮皇學館大学が、同三十七年四月に私立皇學館大学として再興される際、三年前から後援会長を引き受けるにあたり「神道を復活して国民精神の中心にするということは、まことに望ましいことで、これ(精神的な裏づけ)なくして日本の民主政治は進歩しないと思う」と述べている。
この七賢堂から少し坂を上ると、相模湾を一望できる所に和服姿の吉田茂銅像が、富士山を背にして北東向きに立つ。その説明板に「遥か太平洋の先のサンフランシスコを見ている」とあるが、偶然そこを通りかかった地元の紳士から「吉田さんは東京の皇居を見ているんじゃないですか」と話しかけられた。あるいはそうかもしれない、いやきっとそうだろう、と思いながら帰途についた。
(以上、昭憲皇太后百年祭の四月十一日記)