(64)土佐・阿波に遷幸された土御門院の遺蹟歴訪



不思議な御縁で、四月二十三日(日)徳島県モラロジー協議会における「感謝の集い」に参上し、ついで五月八日(日)高知県モラロジー協議会における「国家伝統勉強会」に参上してきた。しかも、この前後に、承久の変(一二二一年)後、敢て京都を離れ、遥か土佐から阿波へと遷られた土御門院(上皇)の御遺蹟を、駈け足で訪ねることができた。その一端を略記しておこう。

徳島県モラロジーへ出講の折に
まず徳島は、二十年程前、京都産業大学の法学部ゼミ卒業生の結婚披露宴に訪ねて以来だから、ゆっくりとした予定を組むつもりであった。しかし、四月二十二日(土)午後、京都府庁の旧議場で開かれた朱雀ロータリークラブと京都グローカル人材開発センター共催のシンポジウムで「世界から注目される京都御所・御苑の来歴」と題する基調講演を頼まれ、懇親会にも出ることになった。大変有意義な会合であったが、徳島には夜七時五分京都発の高速バスで向かう羽目になった。

また翌二十三日は、午前中、徳島市内のモラロジー会館で厳粛な行事に参列し、土御門院の御事績に冠する講話を済ませてから、午後、地元の有志と京都から来た友人W氏の好意で、鳴門市池谷町の土御門天皇御火葬塚(陵)と阿波神社に参拝した。続いて美馬市の忌部神社へ詣で、更に細い山道を通って夕刻、阿波忌部子孫の三木信夫翁宅(築四百年以上、国の重要文化財)を訪ね、深夜十一時まで大嘗祭麁服(あらたえ=麻)の製作供進に関する貴重なお話を承り(資料館も拝見)、近くの民宿に泊めてもらった。

そして翌二十四日朝、再び高速バスで京都へ戻り、午後、京都新聞社ホールで開かれた「日本人の忘れもの」知恵会議に参加して、簡単に私見を述べ、最終列車で小田原へ帰る、という一寸ハードなスケジュールを何とかこなすことができた。

高知県モラロジーへ出講の折に
ついで高知も、平成の初めころ、野中兼山・谷泰山の遺蹟を訪ねて以来であった。今回は研究所の友人H氏が万やむをえぬ事情で出講困難となり、急にピンチヒッターを務めることになったので、前日JRを乗り継いで行き、当日最終列車で戻ることにした。とはいえ、せっかくの機会だから、せめて一ケ所でも土御門院ゆかりの御遺蹟を訪れられたらと思い、直前にFAXしておき、当日正午すぎ高知駅へ着いた。

すると、驚いたことに、県モラロジー協議会の主要メンバーがI氏の運転で案内して下さるという。まず高知自動車道をひたすら南下して、旧幡多郡域の黒潮町に辿り着いた。

その土佐くろしお鉄道「海の王迎駅」近くの海岸は、後醍醐天皇の長子尊良親王が、元弘二年(一三三二)父帝の倒幕失敗によって鎌倉幕府の処分で当地へ流された際、当地の忠臣大平弾正(地頭か)が海から親王を迎えた、と伝えられる所である。

そこで、それより一一一年前の承久三年(一二二一)、父帝と弟帝に殉じて都を離れられ、「土佐の国のはた(畑=幡多)といふ所に渡らせ給」うた(『増鏡』)と伝えられる土御門上皇も、おそらく国府(高知市より少し東の南国市)に近い大湊から舟で遷られたとなれば、この辺で上陸された可能性も少くないと思われる。

「はた」(幡多)の御在所に関する謎解き
では、「はた」のどこに居られたのだろうか。当時の確かな史料がないので、厳密には謎というほかない。ただ、現地には古来さまざまな伝説があり、そのなかに真実が隠れているかもしれないので、一つ一つ吟味する必要があろう。

その伝承地は、旧幡多郡(現在の四万十市と周辺)内の旧中村市と旧大月町に多い。しかも、それ以外に蕨岡(わらびおか)の郷土史家たちによる推定地もあると聞き、みんなで訪れることにした。

ひとつは、後川上流の「天王(てんのう)」と称する地区の岡に祀られている高良神社である。その拝殿は相当に古く、屋根瓦に菊花紋が刻まれている。

もうひとつは、その対岸の「ナラダバ」(平らな台場の意か)と称する地区で、小高い山の中腹に古くから海蔵寺という寺があり、江戸時代の火災にあっても焼け残った地蔵菩薩などの木彫は平安末期の作と鑑定されている。
従って、この辺りも立地条件は良いから、仮の御在所があった蓋然性は考えられる。もちろん、口伝すらないから憶測の域を出ないが、土御門上皇は、土佐に二年近く居られる間、一ケ所に安住されていたのではなく、各地を転々と移動せざるをえなかったのではないか。とすれば、伝承地が何ヶ所もあることは当然かもしれない。

この七日は、夕方、再び高知自動車道を高知市内まで延々と引き返した。しかし、もうひとつどうしても訪れたい所があり、翌八日午前、前日と同じメンバーで出かけた。それは、『吾妻鏡』貞応二年(一二二三)五月二十五日条によると、幕府(北条執権)からの沙汰によって「土御門院、土佐国より阿波国へ遷御あるべき」ことになり、その途次に立ち寄られた(しばらく滞在されたか)とみられる旧香美郡(現香南市香我美町)岸本の月見山である。『土御門院御集』の「詠述懐十首和歌」所収「野に寄す」の

かがみのや たがいつはりの なのみして こふる都の かげもうつらず

という一首は、ここで詠まれたものと伝えられている。確かに、小高い山へ登ってみると、まことに見晴しがよい。この「鏡野」と称する所で月を仰ぎ海を眺めて、都を偲ばれたのであろうか。ただ、王朝人の和歌は、必ずしも実景を詠んでいるとは限らないことを留意しておきたい。

『土御門上皇御聖蹟之研究』と『蕨岡村誌』
その午後、高知市内のモラロジー会館で二時間余り講義をしたが、勢い大半は土御門院の話となり、来聴者には迷惑であったかもしれない。ただ私自身は、徳島への出講が決まった年初から、土御門上皇に関する基本史料と参考文献を調べながら読むことに努めてきた。その上急に決まった高知への出講を機に、上皇ゆかりの地数ヶ所を訪ねて、考えを少し深めえたことに感謝している。

この間に、珍しい資料を入手することができた。そのひとつは、笠井藍水著『土御門上皇御聖蹟之研究』上下二巻(全約四百頁)である。これは従来の研究書も事典類も全く挙げていないが、ネットで検索中、国立国会図書館に所蔵されていることを見つけた。

そこで、今春からモラロジー研究所に採用された久禮旦雄助手が、同館へ行くついでに確認を頼んだところ、「架蔵しているが、閲覧も複写も許可できない」と断られた。理由は、戦時中(昭和十九年)ザラ紙にガリ版印刷したもので、開けばボロボロになりかねないからだという。

しかし、それでも諦め切れず、念のため徳島県モラロジー事務所のM氏に尋ねたところ、県図書館にあることが判った。早速にお願いしてみると、「複写して構わないが、著作権法上、全ページのコピーは二分の一以下しか出来ない」という。それなら手分けすればよいと思いつき、同氏の奥様に協力してもらった。

その全文複写を、四月二十二日夜ホテルで受け取り、明け方まで拾い読みして驚いた。まず上巻には、基本資料を異本まで含めて列挙し自身の解釈と実地踏査の成果を盛り込み、ついで下巻には、伝承地に関する諸氏の論説を網羅してあり、良心的な学術書といってよい。著者の藍水氏(明治二十四年~昭和四十九年)は、考古学者笠井新也氏(その子を倭人・卑弥呼と名付く)の実弟で、阿波史の研究に生涯を捧げた篤学者であるが、戦時中に少部数手作りされた私家本のためか、ほとんど知られていないことが惜しまれる。

もうひとつは、高知県モラロジーを介して頂いた『蕨岡村誌』である。一見古い郷土誌本と思われそうだが、本書は昭和二十九年(一九五四)町村合併で当村が中村市に編入されてから半世紀近く経った平成十四年(二〇〇二)に出版されている。本書を敢えて作ったのは、当地が市(現在は四万十市)の単なる一部分ではなく、明治以来、農業と教育の振興に力を入れ、大正二年(一九一三)内務大臣から表彰されるほどの模範村であったとの誇りが強いからであろう。そうした先人の歩みを、古代にまで遡って明らかにしようと、旧村民の有志が史資料を持ち寄り話し合いながら纏め、多彩な内容を判りやすく書きあげている。

これは本書の副題どおり「ふるさと再見」の試みとして手本になろう。ちなみに、当地のモラロジアンで名刺に「蕨岡の百姓」と大書されているF氏などが親切に案内して下さった。徳島でも高知でも、素晴らしい人々と出会えたことが、何より嬉しい。

(HPかんせいPLAZA 五月九日 所功 記)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)