日本のソフトパワー/第9回 吉田松陰に学ぶ「神を拝む心」



童歌「通りゃんせ」

三年前から住んでいる小田原の国こうづ府津に「菅原神社」がある。ここは童わらべうた歌「通りゃんせ」の発祥地といわれる。外見は田舎の鎮守社と異らないが、初詣・天神祭(毎月二十五日)・春秋例祭・七五三にも、いわゆる受験シーズンにも参拝者が頗る多い。

あの童歌に「行きはよいよい、帰りは怖い」というのは何を意味するのだろうか。木き また 俣修氏の『わらべ歌歳時記』によれば、「七つのお祝いにお札を納めに参ります」といえば、往来手形がなくても関所を通してもらえたが、帰りは容易に通行を許されなかった庶民の哀歌だという。

ただ一般に「こわい」とは、方言で「難儀して骨が折れ辛い」ことだから、宮参りも行きは楽だが、帰りは疲れて苦しい、という意味だろうと解されている。しかし私は、どんなお参りであれ、神々に御加護をお願いに行くことは結構だが、純真な気持ちで拝まないと、帰りに(後で)怖い目にあうことを忘れてはならない、という道歌(教訓)ではないかと考えている。もっとも、天神さま菅原道真の遺詠と伝えられる和歌では、「心だに誠の道に叶ひなば祈らずとても神や守らん」とある。要するに大切なことは、形として祈るか否かではなく、その行いが誠の道に叶っていれば、どんな神さまも守ってくださるにちがいない。

吉田松陰から妹達への遺訓
ところで、今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」のヒロインは、ご存知の通り吉田松陰の末の妹・文(のち美和子)である。ドラマには今のところ、文と中の妹・寿(のち久子)しか出てこないが、より重要な存在は上の妹・千代(のち芳子)にほかならない。

そこで、高校生の時から松陰ファンの私は、まだ二十歳代後半の松蔭が、これら三人の妹、とりわけ年長の千代あてに出した手紙を集め、また妹たちに読むことを勧めた女訓の書を抄出し、それに詳しい解説と補論を加えた小著『松蔭から妹達への遺訓』(勉誠出版)を近く公刊する。そのうち、たとえば、安政元年(一八五四)十二月三日の書簡には、「子どもを育つる」心得三条のひとつとして「神明を崇め尊ふべし」に次のごとく記されている。

神前に詣で柏手を打ち、立身出世を祈りたり長命富貴を祈りたりするは、大間違ひなり。
神と申すものは、正直なる事を好み、また清浄なる事を好み給ふ。それ故、神を拝むには、まづ己が心を正直にし、また己が体を清浄にして、外に何の心もなく、ただ謹しみ拝むべし。これを誠の神信心と申すなり。その信心が積りゆけば、二六時中、己が心が正直に、体が清浄になる。これを徳と申す。…信あれば徳ありといふ。よく考へてみるべし。

確かに、「神を拝む」のは、現世的な立身出世や長命富貴を祈るためではない。心を正直にし体を清浄にして「何の心もなく(無心に)ただ拝む……信心」を毎日ひたすら続けていれば、おのずから「心が正直にて体が清浄になる」という「徳」(功徳)を頂くことにこそ意義があろう。それを判り易く示すため、松蔭は末尾で前掲の「菅丞相(道真)の御歌」(神詠)と「神は正直の頭こうべに舎やどる」という「俗語」を挙げている。

感謝・決意の上で祈願
この教えに学んできた私は、神前に参ると、三つのことを心の中で唱える。まず感謝、ついで決意、さらに祈願の気持ちを込めて、まず「ありがとうございます」、ついで「こういうことをしたいと思います」、さらに「これからもよろしくお見守りください」と唱えるようにしている。

連載:「日本のソフトパワー」(隔月刊『装道』掲載) / 所  功

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