元号の「法的根拠」とは何か



   公共放送NHK「日本人のおなまえっ!」に驚く
 NHKは「日本放送協会」という特殊法人である。「公共の福祉のために…良い放送番組による国内基幹放送を行う…」ことが昭和二十五年(一九五〇)以来「放送法」に定められ、可能な限り正確公平な放送を使命としている。
 このNHKが、得意な報道番組だけでなく、民放顔負けのバラエティ番組にも力を入れつつあるようにみえる。そのヒット例が、昨年四月から続いている「ネーミングバラエティー日本人のおなまえっ!」であろう。
 それを時々視ているが、流石に広く取材し面白く構成されており、まさに「えっ」と驚き教えられることも少くない。そこで、五月十日(木)夜放映予告の「元号」特集は、京都へ出張中のため、家内に録画を頼んでおき、昨夜(金)小田原の自宅へ帰って再生したが、随所で「こりゃ何だ」という場面に出喰して愕然とした。

   昭和二十一年の「元号法」案はなぜ消えたか
 その一つは、ある大学教授の発言を受けて、画面で「元号は民主政治にはふさわしくないと/戦後法的には廃止された」と表示したことである。これは厳密にいうと正しくない。
 何となれば、昭和二十一年(一九四一)十一月三日の「日本国憲法」公布に前後して起草・審議された新「皇室典範」は、「皇室の身位に関する規定に限」る方針を採り、旧「皇室典範」の第十二条「践祚の後、元号を建て、一世の間に再び改めざること、明治元年の定制に従ふ」に相当する規定を「国務的な事項」とみなして除外した。
 しかし、当時の政府は、それを「他の法制によって存続する」ため、単独の「元号法」案を起草し、十一月八日閣議決定している。ところが、被占領下では、法案を国会へ出す前にGHQの承認をえなければならなかったので、十一月十五日、内閣法制局の第一部長が英訳草案を持参したところ、民政局政治部のケーディス大佐から、「元号の制度は、年を数えるについての一つの権威として天皇を扱うことになり、新憲法のたてまえからいって好ましくない。昭和の元号を事実上使うことには反対しないが、元号の法制化は承認できない。しいてやりたければ、占領が終ってから勝手にやればいい」と通知してきた。このような外圧により、元号法案は国会に提出できなくなり、闇に葬り去られたのである。
 ただ、折衝に応じた民政局政務課員のドクター・ピークが「西暦(キリスト)紀元を採ることを強制することは…宗教の自由に反することになる」とアドヴァイスする見識を持ち合せていたことも忘れてはならない。
 ここで重要なことは、元号の制度を「民主政治にふさわしくない」とか「好ましくない」と考えたのは、日本側でなくGHQの対日政策担当者であり、そのGHQも「昭和の元号」使用には反対せず「西暦の強制」に慎重であったのだから、「戦後法的には廃止された」などと軽率に断定することは不適切といわざるをえない。

   新「元号法」成立前にも法的根拠があった
 もう一つは、「驚くべき事実が発見されました」との前振りで、画面に「昭和22~54年の元号はなかった!?」とか「1947年から79年の間に生まれた方/法的には昭和生まれではありません」と表示し、ゲストたちのオーバーリアクションを誘ったことである。これも甚だ不正確であり、視聴者に誤解や混乱を与えかねない。
 何となれば、新「皇室典範」を集中審議した第九十一回臨時帝国議会において、吉田茂内閣の憲法担当大臣金森徳次郎氏は、昭和二十一年十二月六日(衆議院)と十八日(貴族院)、「明治元年の行政官布告がそのまま效力をもっておるが故に、これに準拠して元号も定むべきものである」と答弁している。
 そこで、政府は翌二十二年(一九四七)から新「元号法」の成立する同五十四年(一九七九)まで、内閣官房編『現行法令輯覧』(最終版では第二十七巻第八章)「暦及び時」の中に「年号は一世一元とす」という見立を立て、明治元年(一八六八)九月八日付のA「行政官布告」とB「明治改元詔書」を収載し続けたのである(衆参両院法制局編『現行法規総覧』も同様に掲載している)。
 A「…今より御一代一号に定められ候。…」
 B「…今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ」(原漢文)
 これが、旧典範の第十二条に代る「一世一元」の「法的根拠」とされ、二十三年間「現行法令」(現行法規)として機能したことは間違いない。それゆえ、その間「元号はなかった」とか「法的には昭和生まれではありません」等という子供を驚かすような誇大文句は、学問的に通用するはずがない。
 念のため、これによって一世一元の制は最小限の法的根拠をもちえたが、政府の措置は、明治太政官制下の行政官布告を示すだけでなく、新憲法下でも「昭和」元号が「事実たる慣習」として公的に使用されていることも、併せて根拠に挙げる配慮を怠らなかった。それは、明治二十三年(一八九〇)公布以来有効な『法例』と称する法律の第二条に「公の秩序又は善良の風俗に反せざる慣習は…法律と同等の効力を有す」との規定があり、法源たる慣習法の効力が公認されていたからである。

   昭和五十四年施行「元号法」のもつ意義
 いま一つは、前の流れを受けて、画面で「1974(昭和54)年に元号法が制定され/元号は法的根拠を復活した」と表示されたことである。これは上記の説明を理解された方には贅言を要しないが、「元号法」の本則と付則に若干の補足をしておこう。
 1 元号は、政令で定める。
 2 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
    付 則
 ① この法律は、公布の日(昭和五十四年六月十二日)から施行する。
 ② 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。
 これは、前述の昭和二十一年十一月に内閣法制局で起草した「元号法」案をベースにして、本則の1と2を入れ替え(1は全く同文、2は同趣を簡約にしている)、付則①②も同趣の修正文である。
 その要点は、まず古来天皇の「勅定」を建前としてきた改元が、新憲法の第四条で「天皇は国政に関する機能を有しない」とされているため、国務的な元号は、政府が政令により定めることにした(政令は天皇が国事行為の親署・押印をした上で公布される)のである。
 しかも、その元号は、天皇の崩御(今回から譲位の場合も)により「皇位の継承があった場合に限り改め」、御在位途中で改めない、つまり一世一元(一代一号)の原則を再び明文化したのである。
 すなわち、この「元号法」は、改元の主体(政府担当)と時期(皇位継承の時のみ)を定めることにより、昭和以後の元号制度を存続可能にしたものであり、その制定によって元号の「法的根拠が復活した」のではない。付則②は、戦後の被占領下でやむなく明治元年の行政官布告と改元詔書を明文上の法的根拠としてきた「昭和の元号」を新「元号法」に基づくもの、と振り替えたにすぎない。
 この「元号法」が制定施行されたことにより、政府は昭和五十四年六月から、いつ万一の事態が生じても、政令により改元を実現できる準備に入った。もちろん、それは極秘裡に進められてきたが、そのおかげで、十年後の同六十四年一月七日早朝、満八十七歳八ヶ月余の天皇が崩御されると、直ちに所定の手続きを済ませ、午後二時半に元号「平成」を公表することができたのである。
 その上、あれから三十年後の今日、来年四月三十日限りで今上陛下の「平成」が終り、翌五月一日から新天皇陛下のもとで新元号が施行できるよう、あらかじめ政府内で準備しうるのも、この「元号法」があるからであって、その存在意義は真に大きい。
 なお、私事ながら、四月三十日放映されたNHK「皇室および元号についての特集番組」は、アニメの監修などに少し協力したが、五月十日のバラエティーには一切関与していないことを断っておく。
                       〈平成三十年(二〇一八)五月十二日記〉

〈付記〉 この件に関しては、拙著『年号の歴史―元号制度の史的研究』(初版昭和六十三年、増補版平成元年、雄山閣)所収「一世一元制の史的考察」(編著『日本年号史大事典』総論に再録 平成二十六年、雄山閣)を参照して頂きたい。

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