関谷清景博士の地震研究と矢橋亮吉店主の育英事業



 「東日本大地震」から満十年の本日(令和三年三月十一日)、私は岐阜県立大垣北高等学校の生徒たちに、オンラインにより少し話をさせて頂いた。ただ、私の不手際で接続に手間取って開始が遅れたので、三〇分の予定を二〇分に縮めざるをえなくなったことは、はなはだ申し訳ない。
 六十年余年前(昭和三十二年四月から三十五年三月)在学した母校の校長増田先生と同窓会担当五十川先生より依頼された講演であるから、あらかじめレジュメを作成し(添付参照)、また関連の余談も用意しておいた。しかし、要点以外ほとんど飛ばしてしまったので、ここに余談の部分を書きとめておこう。

  大垣藩校出身の関谷清景博士
 日本列島では太古から地震が多く、その調査・研究も長らく行われてきたが、それを本格的に創められたのは、関谷清景博士である(橋本万平氏著『地震学事始―開発者・関谷清景の生涯―』昭和五十八年、朝日選書など参照)。
 清景(幼名鉉太郎)は、ペリーの再来した安政元年(一八五四)に大垣藩士関谷玄助の長男に生まれ、数え七歳から十年近く藩校で学んだ。十七歳の明治三年(一八七〇)、全国から優秀な人材を東京へ集めるための藩「貢進生」に選ばれ、大学南校(まもなく開成学校、のち東大の法・文・理学部)で英語により工学を学び、同九年(一八七六)英国に留学している。
 ついで関谷は、明治十三年(一八八〇)横浜地震を契機として世界で最初の「地震学会」創立に貢献し、東大構内に「地震学実験所」を設け、「地震観測の報告心得」を作って全国に配り、同十八年(一八八五)「地震を前知(予知)する法如何」という世界的に評価の高い論文を発表した。その翌年、帝国大学理科大学で地震学の初代教授となっている。
 さらに日本で最初の理学博士となった明治二十四年(一八九一)の十月、マグニチュード8クラスの「濃尾大地震」が発生すると、その全体を徹底調査しなければならないと政府に要望して、被災地の大垣を自ら視察した。その翌年、文部省所管の「震災予防調査会」を発足させ、委員として積極的に活躍したが、四年後(41歳)結核で他界している。

 このような理工学の大先達などを送り出した大垣藩校(致道館→敬教堂)は、天保十一年(一八四〇)第八代藩主戸田氏庸により設立された。それから三十年後の廃藩置県直前、藩の貢進生として選ばれたのは、関谷の他に松本荘一郎や和田(のち松井)直吉である。
 松本は大学南校から米国に留学して工学を究め、東大の工学科教授となり、明治二十一年(一八八八)日本初の工学博士号を授与され、鉄道の全国敷設に尽力している(その長男が戦後「帝国憲法」の改正案を作った松本烝治博士)。また松井も大学南校から米国に留学して鉱山学を修め、同二十一年に理学博士を授与され、東大の農科大学長(一時大学総長)を務めている。そのような基礎を養った藩校の功績は大きい。

  岐阜中学出身の矢橋亮吉店主
 叙上のような学者とは異なり、実業家として地元に多大な貢献をしたのが、矢橋大理石店主の矢橋亮吉氏(同店編刊『矢橋南圃翁伝』昭和四十年参照)。
 亮吉は慶応三年(一八六七)、不破郡赤坂村(現大垣市赤坂町)で矢橋本家の宗太郎五男として生まれ、明治十六年(一八八三)岐阜中学を卒業して東京商業学校(現一橋大学)に進んだ。その在学中。前述の関谷博士の家で書生として鍛えられ、あらゆる雑役を務めた。この間に、岐阜中学で貧困のため中途退学した同級生を助けられなかった悔しさと、世話になった博士の教えに恩返しをしたいという思いから、早くも濃尾大震災の翌年(明治二十五年)、二十六歳で月給の一部を割き育英の援助を始めている。
 ついで同三十四年(一九〇一 35歳)矢橋大理石を創業して代表となり、大正五年(一九一六)濃尾農工銀行の頭取に就任する一方、岐阜市内に中学校・商業学校の生徒寄宿舎「楠堂」を設け、生徒と寝食を共にした。その楠堂には自分の息子も入れ、他の生徒と同様に雑役を務めさせ、心身を鍛えている。
 さらに大正九年(一九二〇 44歳)八月、二十万円を基本資金として「矢橋謝恩会」を設立した。それは「いつも今あることに感謝し、先祖の尊い志を受け継ぐ」ため、①有為の青年で家の貧しい者に学資を給与すること、②岐阜の図書館を援助すること、③社会改善の事業に援助することを目的に掲げている。
 やがて昭和に入り不況で苦しくなっても奨学育英事業を続けた。同二十一年(一九四六)、戦災地巡幸中の昭和天皇(45歳)を赤坂本店の西洋館にお迎えする直前の九月末に他界している(80歳)
 ちなみに、私も大垣北高から大学に進学して勉学できた要因は、斉藤校長先生の推薦によって矢橋奨学生に選ばれ、四年間奨学金を支給されたからである。

(令和三年三月十一日稿)

〈付記〉このたび大垣北高卒業六十年の機会に、謝恩の気持ちをこめて、母校にささやかな寄付をさせて頂いた。それを活用して北高で可動式の地歴科教室を造り、生徒からの提案によって「T・commons」(友と共に学ぶ所=入り会い地を意味する)と名付けられた。まことにありがたいことである。

【添付資料】大垣北高オンライン講話レジュメ

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