皇女の敏宮は桂宮家の当主、和宮は将軍家の正室
所 功
「皇女」とは天皇の息女のみを指し、「皇子」と共に天皇から称号(宮号)を賜る。独立した宮家の息女は、内親王であるが皇女ではなく称号もない。
それは、天皇に血縁の最も近い皇子・皇女が、他の皇族よりも重い存在であり、相応の役割を期待されてきたからだと思われる。
では、古来の皇女たちは、どのような人生を歩み、どんな働きをされたのだろうか。その具体例として、今回は幕末前後に数奇な運命を辿った皇女二方について略述しよう。
仁孝天皇の五皇子と十皇女
第120代仁孝天皇(1800~46)には、皇子五方、皇女十方があった。ただ、中宮(皇后)鷹司繁子(1758~1823)との間に生まれた皇子一方・皇女一方は、共に2歳で他界し、母后も亡くなっている。
それから間もなく、繁子同母妹禖子(1811~47)が入内して女御となり、生まれた皇女一方も、翌年他界している。
一方、当時容認されていた側室(掌侍)との間に生まれた皇子女をみると、まず正親町雅子(1811~47)との間に、皇子三方と皇女一方が生まれた。しかしながら、無事に成長して皇位を継がれたのは、第四皇子の煕宮(ひろのみや)統仁(おさひと)親王(孝明天皇1831~66)のみである。
また甘露寺妍子(1806~51)との間に、皇子一方と皇女四方が生まれた。しかし、無事に成育されたのは、敏宮淑子内親王(後述)のみである。
さらに橋本経子(1826~65)との間に、皇子一方と皇女一方が生まれた。しかし、無事生育されたのは、和宮親子内親王(後述)のみである。なお、掌侍の今城媋子(1809~75)との間に生まれた皇子一方も、二歳で他界している。
つまり、仁孝天皇には正后と数名の側室があり、十五方の皇子・皇女を儲けられた。けれども、何とか生き残られたのは一皇子と二皇女のみである。
敏宮淑子内親王は桂宮家の当主に
そのうちの敏宮淑子(ときのみや・すみこ)内親王は、文政12年(1829)1月、閑院宮家三代の愛仁(なるひと)親王(1818~43)と婚約したが、2年後、親王(25歳)の薨去により婚約を解消している。
その閑院宮家より創立の古い桂宮家は、なかなか直系男子に恵まれなかった。すでに第三代の穏仁親王は後水尾天皇の皇子、第四代の尚仁親王と第五代の長仁親王は共に後西天皇の皇子、第六代の文仁親王は霊元天皇の皇子が、それぞれ養子に入っている。
ついで第七代の家仁親王と第八代の公親王は、前代の王子であるが、第九代盛仁親王は光格天皇の皇子であり、第十代の節仁親王は仁孝天皇の皇子が、それぞれ養子として桂宮家に入った。その上、盛仁親王は、前代の薨後に同妃源寿子が20年近く家主として預かっていた桂宮家を、文化8年(1811)に、2歳で継いだ。けれども十日後に亡くなり、再び無主となっている。
そこで、24年後の天保元年(1835)、節仁親王が数え3歳で第10代を継いだ。けれども、翌年他界して三たび無主となった。しかし当時は、仁孝天皇(37歳)のもとには皇太子統仁親王(8歳)以外に皇子がなく、桂宮家は断絶の危機に瀕した。側室だけでなく養子まで容認されていても、男系男子のみで継いでいくことは難しかったのである。
それから10年後(1846)、仁孝天皇の崩御により孝明天皇(18歳)が即位され、8年後(1852)祐宮睦仁親王(明治天皇)が健やかに誕生された。けれども、宮家に養子を出すような余地はない。
折しも、その2年後(1854)、京都御所などの焼失により、淑子内親王は居所を転々とし、文久元年(1861)無主の桂宮家を仮の居所とした。すると、桂宮邸の諸大夫が、内親王に桂宮家を相続して頂きたいと再三懇請した。それが文久二年(1862)勅許され、淑子内親王(35歳)は皇女として桂宮家第十一代当主になった。それに伴って、幕府から御道具料五百石が進献され、慶応2年(1866)一品で准三宮となり「桂准后宮」と敬称されている。
ただ、このような皇女の当主は前例がなく、他宮家から相応しい王を婿に迎えることは難しかったにちがいない。そのため、明治14年(1881)、独身の淑子内親王(53歳)が京都で薨去されると共に、300年近い桂宮家は終止符を打つに至ったのである。
和宮親子内親王は将軍家の正室に
もう一方の和宮親子(かずのみや・ちかこ)内親王は、異母姉の淑子内親王より18歳若く、異母兄の統仁親王(孝明天皇)より16歳若い。父帝(47歳)の崩御5ヶ月後の弘化3年(1846)閏5月に誕生している。
それから5年後の嘉永4年(1851)、兄帝の勧めにより、12歳上の有栖川宮家第九代の熾仁(たるひと)親王(1835~95)との婚約が内定された。しかし、まだ数え6歳あったから、ほぼ10年後の成婚に備え修養に努めている。
ところが、その間に徳川幕府は、200年以上続けてきた鎖国から開国に踏み切らざるをえなくなり、「日米修好通商条約」の調印前に勅許を求めた。それに対して孝明天皇は、日本が欧米に侵略されないよう攘夷を強く主張されたが、幕府との協調で難局を切り抜けるために、公武一和(合体)の案を受容された。
そこで、安政6年(1859)幕府から摂政に公武一和を推進するため、和宮の将軍徳川家茂(1846~66)への「降嫁」を申し入れた。すると、それに反対の意向をもたれる孝明天皇も和宮内親王も、やむなく承諾せざるをえなくなった。そして文久元年(1861)10月、そのころ桂宮邸にいた和宮(15歳)は、中山道を大行列で東行し、12月に江戸城の本丸大奥へ入り、翌年2月、和宮を主人、将軍を客分とする形の婚礼が行われている。
しかし和宮は、徳川家に嫁入りした立場を自覚し、文久3年(1863)将軍家茂(18歳)が上洛すると、社寺の御札に「百日詣で」を行った。ついで慶応2年(1866)家茂(21歳)が大阪城中で病死すると、和宮は夫に殉ずる意をこめて落飾し、後継将軍は一橋慶喜とすることに賛意を伝えている。
しかも、間もなく兄帝(孝明天皇)の崩御によって御代が替わると、将軍慶喜は「大政奉還」に踏み切り、「戊辰戦争」が起きると、和宮に面会して恭順の意を示した。その和宮は、明治2年(1869)一旦帰京して父仁孝天皇の二十五回忌参拝したが、同7年(1874)から東京に戻り、3年後(1877)9月、31歳の生涯を閉じている。
このように皇女和宮は、将軍家茂に降嫁すると、あくまで将軍家の「御台様」(正室)として様々な尽力を重ねた。それを通して幕末維新の和平に多大な貢献をされたのである。 (令和6年(2024)3月1日)
〈付記〉
戦後制定の現行「皇室典範」を見直す論議の過程で、政府(有識者会議)から、平成24年(2012)、皇族女子が一般男性と婚姻して皇籍を離れても、「皇女」の称号を与え、皇室の公務を分担してもらうとか、また令和3年(2021)、皇族女子は一般男性と婚姻しても皇籍に留まるが、その夫と子女に皇族の資格を認めない、というような試案が示された。
その際、なぜか「皇女和宮」を引き合いに出して、試案の裏付けにした論者が少なくない。しかし、和宮は古来の慣例どおり結婚後も「皇女」の尊称を保持したが、あくまで将軍に降嫁して徳川家のために働き続けたのであって、皇室の公務を担ったのではない。
それにも拘らず、現在懸案となっている案について、「有力保守系団体の関係者」は、「結婚後も皇族の肩書で公務をしていただくというだけで、幕末に皇族の身分を残したまま徳川14代将軍に嫁いだ皇女和宮と同じです」と強弁しているという(『週刊エコノミスト』今年1月16日号掲載の野口武則氏稿「東奔政走」所引)。
これは歴史を曲解した牽強付会といわざるをえない。(令和6年3月10日)
〈参考資料〉
・宮内省編『仁孝天皇実録』第五(昭和11年成稿、同19年刊)(ゆまに書房複製本第3巻、平成18年刊)
・宮内庁蔵版『孝明天皇紀』第五(平安神宮著作、吉川弘文館刊、昭和56年)
・宮内庁編『桂宮実録』(昭和59年成稿)(ゆまに書房影印本第7巻、平成29年刊)