譲位後の天皇は「上皇」、皇后は「太后」の論拠



所  功

今上陛下の「高齢譲位」を可能とする法整備に向けて、昨年9月に発足した政府の有識者会議は、多様な意見に耳を傾けながら、大筋的確な方針を導き出されつつある。また、国会においても、衆参正副議長の丁寧な仲介により、与野党の歩み寄りによる合意が形成された。関係者の真摯な御尽力に感謝したい。

ただ、昨日(4月6日)の有識者会議では、譲位後の具体的な問題点が話しあわれ、「譲位後の(天皇)陛下の称号は…〝上皇〟とする方向で調整する」と共に、「上皇の配偶者であることを示す新称号は上皇后を用いることになった」(「朝日新聞」朝刊)「皇后さまの称号は…〝上皇后〟(じょうこうごう)とする案が浮上している」(「産経新聞」朝刊)という。しかし「上皇后」というのは、前例のない新造語であり(「大皇后」は奈良時代からある)、再考を要する。この点に関して、私見の一端を論拠も添えて略記しよう。

 正称は「太上天皇」と「皇太后」

皇室用語は、歴史上使われたものを可能な限り受け継ぐことがふさわしいと思われる。そこで、宮内庁編『皇室制度史料』(吉川弘文館)などを参照して確かめると、譲位された後の天皇は「太上天皇」、皇后は「皇太后」が正式の称号である。

たとえば、まず今から約千三百年前に編纂・施行された『大宝(養老)令』の「儀制令」は「天子〔祭祀に称する所〕/天皇〔詔書に称する所〕/皇帝〔華夷(外国)に称する所〕/…太上天皇〔譲位の帝に称する所〕」と定めており、すでに『続日本紀』大宝元年(701)6月29日条に「(持統)太上天皇、吉野の離宮に幸(みゆき)したまふ」とみえる。

その由来は、北畠親房の『神皇正統記』に「太上天皇と云ことは、異朝に漢高祖の父を太公と云ひ、尊号ありて太上皇と号す。…本朝には昔その例なし。皇極天皇(女帝)位をのがれ給し(初めて譲位された)時、皇祖母と申しき。此の(持統)天皇よりぞ太上天皇の号は侍る」と説明するとおりである。

一方、『大宝(養老)令』の「公式令」とその注釈書(「古記」『令義解』等)によれば、「皇后」は「天子の嫡妻(正妻)」、「皇太后」は天皇の「母」(実母も養母も)、「太皇太后」は天皇の「祖母」(同上)と云い、三者を「三后」とか「三宮」と称している。

この「皇太后」は、夫たる天皇が崩御された時だけでなく、譲位された場合も存在し、むしろその方が多い。たとえば『続日本後紀』の承和2年(835)3月丁巳条に「(仁明天皇)勅して後の太上天皇(叔父淳和先帝)に御封二千戸、皇太后(淳和帝后正子内親王)に御封一千戸を、冷泉院(先の太上天皇=嵯峨先々帝)の御封に准じて行ふ」とある。

念のため、有識者会議の中で「「皇太后」は未亡人という意味合いを帯びていると否定的な見解が出た」(「読売新聞」朝刊)と報じられている。しかし、それは明治以後の天皇終身在位にとらわれた杞憂であって、譲位後の「太上天皇」に対応する正称として「皇太后」を用いること自体は何ら問題ない。

略称の「上皇」と「太后」を公称に

ついで「太上天皇」の略称としては「上皇」が早くから用いられている。その初見は、弘仁14年(823)4月27日、嵯峨天皇が異母弟の淳和天皇に譲位された際「万機の務め、賢嗣に伝ふ。……臣(嵯峨太上天皇)贅費を省く為め、上皇の号を除かん」との上表を呈しておられる(菅原道真編『類聚国史』帝王部・太上天皇)。

この「上皇」は以後千年近く使われている。たとえば、『(橋本)実久卿記』文化14年(1817)11月23日条に「今日禁中(御所)内々方に於て能を御覧なり。(光格)上皇御幸あり〔御代始の能なり〕」と記され、その読み方は『名目抄』に「シャウカウ」(じょうこう)とある。

一方、「皇太后」の略称としては「太后」があり、平安時代に比較的多く見られる。その早い例は、『日本三代実録』貞観2年(860)5月11日条に「淳和太后(正子内親王)、院裏に於て斎会を設け…法華経を講ず」とある。また光孝天皇の皇后(宇多天皇の生母)班子女王は「昌泰の太后」(『北山抄』所引「外記々」)、さらに醍醐天皇の皇后(朱雀・村上両天皇の生母)藤原穏子は「延喜の大后」(『玉葉』建久元年4月26日条)と記されている。

ただし、「太皇太后」を「太后」と称した例もある(『小右記』長保元年12月2日条など)。また「太后」を写本により「大后」と記すこともあるが、『古事記』に「大雀命」(仁徳天皇)の后を「大后」と書いているので、令制より以前は、正妻の后を「大后」(おおきさき)と称していたと考えられている(本居宣長『古事記伝』など)。

もうひとつ「皇太后」「太皇太后」の別称として用いられるようになったのが「大宮」である。その早い例は、一条天皇朝の長保元年(999)、皇太后であった昌子内親王のことが『小右記』に「大宮」と記されている。しかし、江戸時代になると、むしろ皇太后を指して「大宮」と称する例が多い。

たとえば、『八槐記』延享4年(1747)5月27日条に、「(桜町)太上天皇の女御」二条舎子を「皇太后」に立てる際に「皇太后、或は大宮と称し奉るべし」とあり、それを「ヲホミヤ」(おおみや)と訓んでいる(『日次醜満』)。また『定晴卿記』安永10年=天明元年(1781)3月15日・16日条に「先帝(後桃園天皇)の女御」で「今上(光格天皇)の養母」近衛維子を「皇太后」とし「皇太后宮を大宮」と称している。さらに『有栖川宮日記』慶応4年(1868)3月18日条に、「准后の御方(英照皇太后九条夙子)を「大宮に立て、今より大宮と称され候事」と記されている。

従って、この「大宮」は、明治以降も皇太后の居所を「大宮御所」と称する形で用いられた。平成に入ってからも、昭和先帝の香淳皇太后の居所が吹上の「大宮御所」と称されている。それゆえ、今後も「皇太后」の別称として「大宮」を使うことは可能であろう。

ただ、これは「上皇」と対にして用いられたことがないようである。また、「上皇」を「じょうこう」と音読しながら、「大宮」は「おおみや」と訓読するほかないとすれば、対称とすることが難しい(単独の「大宮御所」は差し支えない)。

それゆえに私は、譲位後の天皇を「上皇」(じょうこう)と称するのであれば、皇太后は「太后」(たいこう)と称すること、しかもこの両者を「太上天皇」「皇太后」の略称ではなく、今後は正式な公称(称号)と定めることが必要だと考える。また、両者は新天皇の御両親であるから、その敬称は従来どおり「陛下」であり、その待遇は「内廷皇族」として、それにふさわしい御所・職員・費用(および警備)を用意するのが当然と思われる。

(平成29年4月7日夕方稿)

〈追記〉

皇室は千数百年以上の長い歴史を経てきたから、どの用語にも様々な印象が付きまとい、それに引かれて是非まで論評されやすい。昨夏以来クローズアップされた「譲位」自体、かつて政治的な譲位に伴う弊害もあったことを強調して反対された方が少なくない。

それと同様に「上皇」という称号は、院政を行ったり争乱を起こした平安後期以来の上皇を思い起こすからよくないとか、また「太后」という称号は、清朝末期に辣腕を振った「西太后」などを連想させるからよくない、というような知ったかぶりの批判が出るかもしれない。

しかしながら、今上陛下が問題提起されたのは、超高齢化社会において「象徴天皇」の役割を自ら担いうる次世代への「譲位」であるから、かつてのような青壮年「上皇」による院政や抗争は生ずるはずがないと思われる。また、その伴侶である皇太后=「太后」も高齢であり、新天皇に不当な介入をされるはずがないであろう。

それより遥かに重要なことは、今回「高齢譲位」という全く新しい例が開かれて、両陛下が望ましい「上皇」「太后」の在り方を工夫しながら形作っていかれることだと思われる。              (両陛下58回目の御結婚記念日 4月10日の朝)

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