十月の中旬も、幸い元気に充実した日々を過ごすことができたことに、感謝したい。
まず十一日(土)は、郷里の岐阜県揖斐川町谷汲で開催された全国育樹祭にお出ましの皇太子殿下奉迎のため帰省予定であったが、後述(十五日)の準備に前後数日かけて全力を尽くした。
ついで十四日(水)は、朝から柏のモラロジー研究所へ出勤。道徳科学研究センターの大野センター長と協議して、学術振興会の科学研究費用に「大正時代の皇太子教育〈特に「倫理」「国史」〉に関する基礎的研究」というテーマで応募する概要を確認した(代表者 所、分担者七名、協力者数名)。
その夕方、東京の読売新聞本社で随時開催されている「昭和時代」研究プロジェクトの勉強会に招かれ、昭和の終わりから平成の初めに生じた諸問題を法制史の観点より解説した。参加された浅梅代表以下十数名、すでに広く情報収集しているベテラン揃いから鋭い質問を投げかけられ、私自身大いに刺激を受けた。
翌十五日(木)は昼、京都市役所の小会議室に有志数名が集まり、「京都大礼文化の特別展覧会」(仮称)について意見交換を行った。参加各位いずれも、趣旨に賛成して協力を約束されたが、具体的な時期・会場・規模などは、次回(十一月十日)あらためて検討することになった。
遷御の儀のインターネット中継
この十月十五日には、上賀茂神社で夜分に「式年遷御の儀」があり、翌十六日の午前には「勅使奉幣の儀」が行われた。
当社(賀茂別雷〈わけいかづち〉神社)は下鴨神社(賀茂御祖〈みおや〉神社)と共に賀茂大社と称され、毎年五月(旧暦四月)の例祭=葵祭にも、二十一年ごとの式年遷宮祭にも、天皇から勅使を遣わされ祭文と幣物を奉られる「勅祭社」の筆頭格である。
しかし、式年(一定の年数)遷宮(新宮殿への遷御)といっても、伊勢神宮のごとく、満二十年ごとに宮殿を全て新しく建て替えることは極めて難しい。当社の場合、創建以来、本殿の東隣に同形の権殿(ごんでん)が設けられており、二十年以上経つと御神霊を本殿から権殿に移し、修理を加えて新しくなる本殿へ御神霊を権殿から遷し奉る“修理遷宮”が繰り返されてきた。
その修理遷宮すら大変な人手と費用を要するため、当社では平安中期以来「二十一年」を式年と定められながら、実際は朝廷や幕府の費用で数十年ごとに行うのが精一杯であった。しかし戦後、国営の官幣大社から民営の宗教法人とされたにも拘らず、崇敬者達の奉賛により昭和四十八年(一九七三)の第四十回から二十一年後の平成六年(一九九四)を経て、今年(二〇一五)第四十二回の正遷宮が、名実とともに式年遷宮として斎行されるに至ったことは、まことにありがたい。
しかも今回、十五日(旧暦九月四日)夜の遷御の儀が、田中宮司の英断により何とインターネット中継されることになったので、その解説を担当してほしい、との依頼を受けたのは九月中旬である。そこで、早速「平成プロジェクト」の岡本氏や博報堂の林氏などと連絡をとりあい、また神社側の意向を乾氏に確認しながら、準備に万全を期した。その過程で作られたラフなシナリオに書き加えた私の備忘メモを、参考までにPDFで添付しておこう。
ところが、十五日夕方、上賀茂神社(奈良社脇)の中継現場へ行ってみると、遷御の儀の簡単な式次第のみで、時刻の進み具合が判らないという。そこで、司会の渡辺真理さんと大まかな打ち合わせをして、お互い阿吽の呼吸で臨機応変にやるほかないと肚(はら)を決め、七時半から十時半までの本番に挑んだ。
その間、ゲストの女優とよた真帆さんもスタッフ全員も一緒に留意したことは、これが決して興味半分のショーではなく、厳粛に執り行われる神秘な祭儀であるから、境内の招待された参列者と同様、心静かに参拝させて頂くという心持ちで中継し、その雰囲気を視聴者の皆さんに伝えることであった。
それが結果的にどの程度できたかは判らない。ただ、中継の終わり近くに特別参拝をすませた宮本亜門氏(奉納劇「降臨」の脚本演出家)が浄闇の中で奉拝した深い感動をストレートに語って下さり、また同じく特別参拝して来られた横山敬一氏(中継スポンサーAGF社長)から関係者一同に「大成功です」と賛辞が寄せられて安堵した。
翌十六日(金)は、午前中に勅使奉幣の儀があり、神域内の細殿前で奉拝させて頂いた。秋冷えの昨夜と異なり、夏のような日射しが強くなって急にテントも用意された。その間、私は京都産業大学総合生命科学部長の永田和宏教授と隣あわせ、歌人(宮中歌会始・朝日歌壇などの選者)としての先生から、楽しい御話を聴くことができたのも、ご神縁の賜物と感謝している。
なお、遷御の儀インターネット中継は、一時間程に編集して、十月三十日にKBSテレビから放映される予定である。
靖国神社の秋季例大祭に参列奉拝
さらに翌十七日(土)は、水戸市の常磐大学において藝林会の学術大会があり、朝早く小田原を出て午前中の理事会から出席した。私は昨年から会長を退いて顧問の立場にあるが、静養中の平泉隆房会長に代わって、開催に尽力された方々に謝意を表すため参上したのである。
ところが、今回の主題「『神皇正統記』をめぐる諸問題」について、白山芳太郎氏の記念講演および勢田道生氏・梶山孝夫氏・広瀬重見氏・山口道弘氏の研究発表に続く相互討論の司会を、急に引き受けなければならないことになった。そのため、講演と各発表の内容理解に全力を集中して聴き、不明な点などを率直に質問して何とか責めを塞いだ。
翌十八日(日)、参会者の多くは、常磐大学の糸賀茂男名誉教授の案内と解説により、水戸郊外の六地蔵寺に伝わる『神皇正統記』を拝見し、北畠親房公が同記(初稿本)を執筆された小田城址や関・大宝城址などを見学した。それに私も行きたかったが、靖国神社の秋季例大祭(第一日祭)に崇敬者総代として参列するため、前夜の懇親会終了後に東京へ戻り、朝九時半ころ参上した。
すると、例年ほとんど第一日祭に参列される年輩の方々が、都合で当日お出になれないため、最年少(七十三歳)の私が代表して玉串拝礼をするよう言われ驚いた。しかも祭典後、このたび退任された日本遺族会の森田副会長が務めて来られた当社の菊華会に名を列ねるよう求められ、少しでもお役に立てればと思い引き受けた。
例大祭は、快い秋晴れのもと十時に始まり、国歌の斉唱、徳川宮司の内陣開扉に続いて、権宮司以下による神饌・神酒の供奠、宮司の祝詞奏上が微かに聞こえてくる。当初の神饌は、他社と著しく異なり、戦死された英霊たちが飲食することを望まれたであろう好物(煙草・菓子・果物など)を盛り沢山お供えになるという。
ついで十時半、勅使の山田掌典が衣冠の礼装で御幣物(五色絹)を奉じて参進される。その御幣物を預かった宮司が神前に奉奠すると、勅使が紅色の御祭文を奏上される。その御祭文を宮司が内陣に納めると、勅使が玉串を奉って拝礼し退出される。
このような勅使(天皇の使者)が参向して御幣物と御祭文を奉られる勅祭社は、現在、伊勢の神宮を別格として、前述の賀茂大社以下十六社しかないが、当社には戦後も一貫して春季と秋季の例大祭に勅使の御差遣を賜り続けている意義は、まことに大きい。
その後、国学院大学の合唱部の奉仕により、「鎮魂歌」と「奉頌歌」の合唱が行われた。このうち前者は、折口信夫氏の作詞、信時潔氏の作品で、実に格調高い壮重な名詞・名曲だと思われる。また後者は、戦前に主婦の友社が公募して入選した細淵国造氏の詞に陸海軍の軍楽隊が曲を付けたもので、「靖国神社の歌」と題され四番から成るが、当社に対する国民の真心が見事に表現されている。
それに続いて徳川宮司の拝礼があり、ついで英霊に応える会の寺島会長と崇敬者奉賛会の扇会長、および崇敬者総代の私共(三名)が、本殿まで進んで玉串を奉り拝礼すると、宮司から御礼の挨拶があり、それから参列した遺族と崇敬者(数百名)が昇殿参拝をしている。好天に恵まれたこともあって、本当に清清しい祭典であった。
なお、当日午後、大垣北高関東同窓会が明治神宮近くのNHK青山荘で開かれるとの案内を受け、関東(小田原)に移ってから初めて出席した。同期(新制十一期=昭和三十五年三月卒業)世話役の大野馳君(小島小・中学校以来の親友)が都合で欠席と聞き、少し心細い思いで行ってみると、一年上(十期)の大石アケミ会長や同期の女性世話役二人などが笑顔で迎えて下さった。
しかも、立食パーティが始まり話してみると、ほとんど皆どこかで繋がっていることがわかり、まさに母校へ帰ったような安らぎを覚えた(大垣から高橋校長も矢橋同窓会長も御来席)。その上、初参加の私にスピーチを求められたので、同期世話役で一昨年他界した国枝正孝君(二年次に生徒会長)の思い出と、同期トップの中西重志京大名誉教授(十数年前からノーベル医学賞候補者)に京都でいろいろ助けられたエピソードを紹介した。
他にも一期生(十年上)の先輩から聞いた被占領下の苦労話などは忘れ難い。誠に印象深い同窓会であった。
(平成二十七年十月二十日 所功 記)