元正女帝と養老改元の画期的意義



平成二十四年(二〇一二)十一月十六日 養老町民会館

養老改元千三百年祭「養老の日」(十一月十七日)制定記念講演記録

元正女帝と養老改元の画期的意義

京都産業大学名誉教授・モラロジー研究所研究主幹

所  功

 

はじめにー養老の「菊水」ー

ご紹介にあずかりました所でございます。私はご当地の養老町に近い揖斐川町の生まれ育ちです。いま満七十歳ですが、幸い健康に恵まれまして、今日も朝早くから従兄弟(橋本秀雄、大垣在住)と一緒にこちらへ来る途中、垂井町の南宮大社などにもお参りしてきました。

今日は「養老の日制定」の記念式典があり、先程いろんな方の表彰もあったようですが、そういう栄えある機会に記念講演をさせていただくことになりまして、有り難く思っております。一時間ちょっとですが、「元正天皇と養老改元」に関することを中心にお話をさせていただきます。ただ、その前に少し感想めいたことを申し上げたいと思います。

私は故郷というものが、どれほど大事かということは、若いころから伊勢や東京・京都に勤めながら、思いを深めてきました。そこで、この三月に大学を定年で退職してから、郷里の揖斐川町で少し地元へのご恩返しが何かできればと思っておりました。しかし私は娘が一人でして、数年前から神奈川県の方で家庭をもっており、ぜひ来るように言ってくれましたので、この四月から小田原へ移りました。半年あまりになるのですが、移ってみますと、海の近くで魚がおいしく、孫にも会えて本当に快適です。

とはいえ、木の国・山の国の岐阜県と、あるいは揖斐郡の揖斐川町、とりわけ私の生まれた小島の野中というところは、本当にいいところだったなあ、ということがかえって良く見えてまいります。「故郷は遠きにありて思ふもの」と言いますけども、確かにそうだなあ、という実感を持っております。また私は高等学校が大垣北でして、この養老あたりから通っていた同級生や知り合いも数多くいます。そういう方々のおられる養老町でお話をする機会に恵まれ、大変嬉しく思っております。

その上、今日は昼前に養老公園へ参りまして、すこぶる元気になりました。こんこんと湧き出る「菊水」を飲んできたからです。うっかり容器をもっていかなかったので、これでは家内へのおみやげにもならないなと思っておりましたら、さっき控え室で安藤総務部長がちゃんとあるよと言われまして、「菊水泉の水」という美しいデザインのボトルを頂きました。これはまことにありがたく、家内や孫へのおみやげにしたいと思っております。

ちなみに、今や飲める水の重要性が世界的に大きな脚光を浴びております。今の皇太子殿下は水問題に大変お詳しいと同時にご熱心で、国連「世界水フォーラム」の名誉総裁をしておられます。先般来、宮内庁のホーム・ページにもご研究成果などが載っており、簡単に拝見できます。この二十一世紀は、人口増大などに伴って、食料危機、端的に言うと水危機の恐れが高まっています。

そういう中で、本当に人間が飲んで安全な、安心できる水をどう確保していくか、ということが大きな課題となっており、その重要性はもっと認識されてもいいのではないか。それゆえ、ご当地の養老が美しい自然にもおいしい水にも恵まれている価値は、もっと強調されてもよいのではないかと思います。

一、日本では公認の女帝(女性天皇)

さて、本題に入らせて頂きます。私は歴史が専門でありますから、どうしても確かな史料を大切にいたします。論拠となる歴史的な記事などを抜き書きした資料や系図などのコピーを適宜ご覧いただきたいと思います。

まずご当地にとりましては、今から千三百年ほど前に元正女帝がお出ましになり、再び翌年、またお越しになられた、という輝かしい歴史があります。天皇陛下が、奈良時代に、二度もお出ましになったところは、京畿以外にほとんどありません。奈良近辺は別といたしまして、天皇がお出ましになることは滅多になかった当時、ここには二度も来ておられる。それは何故なのかということであります。

その大きな要因の一つは、当時の天皇が女帝であったということ、女性の天皇であったということです。もちろん、男性の天皇も来られなかったわけではありません。それから二十二年ほど経ちましてから、聖武天皇がわざわざこの地へ来られました。

最前も教育委員会の中島さんから教えていただいたのですけども、この元正女帝や聖武天皇の行在所はどこにあったのかについていろんな説があるようです。しかし、だいたい現在の養老神社あたりが、元正女帝お出ましのゆかりある所であろうと思われます。また聖武天皇の御遺蹟としては、地名などから考えれば、戸関あたりだろうと推定されていることも、地図などを拝見したりして成程なと思いました。

ともあれ、この元正女帝が二度もお出でましになり、また聖武天皇という奈良時代を代表する天皇がわざわざお出ましになっているということは、日本の歴史上かなり大きな出来事であります。それゆえ、この行幸には画期的な意義があると思います。

そこで、念のため、女帝の存在について少し説明を加えさせていただきます。日本の天皇は今上陛下で百二十五代と数えられますが、そのうち八方十代の女性天皇がおられました。これは日本の大きな特徴の一つといってよいと思います。実際お隣の中国には女帝がいなかったことになっています。

もちろん唐代に則天武后と言う方がおられましたけれども、これは例外であります。この武則天は、高宗の妃を殺して皇后となり、夫の病没後に立った二人の子を廃して、六九〇年に即位し大聖女帝と称されます。しかし、十五年後、しっぺ返しを恐れて、皇帝の座を降り(むしろ降ろされ)、皇太后として亡くなりました。だから中国の正史『唐書』では、あくまで則天武后、つまりお后で終わっています。

中国の正史では、絶対に女性の皇帝を認めないという建前があるからです。これは父系宗族を絶対視する男尊女卑の中国的な考え方であります。

また、お隣の朝鮮半島には、そのころ新羅という国がありました。この新羅では、三名の女王が現れております。最初の善徳女王については、韓国で「ソンドク」(善徳)というタイトルのテレビドラマが作られ、日本でも放映されましたから、ご存じの方もあるかと思います。真平王の遺言により六二二年に擁立されましたが、唐の太宗から「汝の国、婦人を以て主と為す」ゆえ「軽侮」を受けるのだぞと非難され、高麗時代に作られました『三国史記』にも、「男尊女卑」の理に反して女王を立てたから乱世になったのだと批判されています。

ところが日本では、決してそうではありません。八方十代と言いますのは、お一人で二度も天皇になられた方までおられるのです。その系図を見ていただきますと、皇極天皇と言う方が斉明天皇になられ、三十五代と三十七代、二回にわたって天皇になっておられます。これは天智天皇・天武天皇のお母さまです。また、聖武天皇と光明皇后の間にお生まれになりました阿倍皇女と言われる方が、まずは孝謙天皇としてお立ちになり、ついで称徳天皇として再び即位されました。女性で二度も天皇になられた事例が二回もあるのです。

しかも、それは決して非難されるどころか、むしろそれぞれに立派な方であったとか、かなり良いことをされたとか言うことが『日本書紀』や『続日本紀』という正史に書かれております。日本においては、女帝の出現を当然とし、その役割を正統に評価してきたことが明らかであります。日本は元来、かつての中国や朝鮮諸国のような男尊女卑の考えで女帝を非難したり否定したことがないのです。

二、氷高内親王=元正女帝の登場

それでは、この養老へ来られた元正女帝は、どうして即位をされたのか、いうことであります。系図を見ていただきますと、元正女帝は氷高内親王と称されました。この氷高内親王のお父さまは草壁皇子と言われ、お母さまは阿閉皇女です。(閉という字がさっきの阿倍皇女=孝謙女帝と違います)。お父さまが皇子、お母さまも皇女ということですが、この両親のもとに生まれられた氷高内親王が即位されるというようなことは、ほとんどありえません。ところが、実は天皇になられたのです。

この当時、皇位継承については非常な難しい事情がありました。およそ七世紀代から八世紀にかけて、中央集権的な国内体制がだんだんと整ってきましたけども、いろいろ争いもありました。とりわけ深刻な争いは、ご承知のとおり六七二年の「壬申の乱」です。これは系図にもありますとおり、天智天皇の弟君の大海人皇子(のち天武天皇)と、天智天皇のお子さまの大友皇子(のちに弘文天皇)との間で生じた皇位をめぐる内乱です。

天智天皇はいったん弟君を後継者に指名されながら、やがて実子の大友皇子に譲りたいと考えられるようになります。それを察知した大海人皇子は身を引いて吉野へ籠られ、大友皇子は近江の大津で即位されました。しかし、その直後、どちらが先に闘いを挑んだか諸説ありますけれども、いずれにせよ、この叔父と甥の間で内乱が起きた。そのため、この美濃地方も内乱に巻き込まれ、ほとんど大海人皇子側に協力をしたのです。

ちなみに、今年(平成二十四年)は『古事記』という書物ができて満千三百年にあたります。この『古事記』をまとめあげたのは太安万侶という人ですが、安万侶のお父さんは揖斐川町の出身とみてよいだろうと思っております。定説ではありませんが、ある史料によりますと、太安万侶のお父さんは多品治(おおのほむぢ)という豪族で、この人が現在の揖斐川町の脛永あたりにいたと推定されております。

この多(太)品治など多くの美濃出身者が、壬申の乱に際して天武天皇方に協力したことは、正史にも記事が多くあり間違いありません。壬申の乱は、ことほど左様に当地美濃にも大きな波紋を呼んだのです。

この内乱で勝利をおさめられた天武天皇の後は、お子さまの草壁皇子が継ぐことになり、皇太子に立てられましたが、まもなく二十八歳くらいで亡くなってしまいます。そこで、長らく夫君の天武天皇を助けてこられた皇太后の鸕野讃良(うのささら)皇女が、持統天皇となられます。

ただし、それは、頼みとした継嗣の草壁皇子が亡くなってしまいましたから、その令息と阿倍皇女との間に生まれていた軽皇子(のち文武天皇)が成長するまでの「中継ぎ」として即位されたのです。とはいえ、この女帝が大変な実力者でして、亡き夫の遺志を受け継いで非常な治績をあげておられます。

たとえば、お伊勢さんは来年(二〇一三)第六十二回の「式年遷宮」を迎えられます。この二十年に一度、神宮の社殿も神宝も装束もすべて造り替えるという制度を立てられたのは、天武天皇でありますが、その御遺志を継いで持統女帝が第一回を実行されたのです。

このような夫の遺志を継いで実現されたこと、また女帝として早く亡くなった皇子のあとに、孫を育て即位させるためになさったことは、極めて大きな功績だといってよいと思います。

やがて孫の軽皇子が十五歳で文武天皇として即位されたのですが、この方も十年後に亡くなります。しかも遺児の首(おびと)皇子(のち聖武天皇)は未だ七歳でしたから、立派に成長されるまでの間、誰かに繋いでもらうほかありません。ということで立てられたのが、草壁皇子の妃であった阿倍皇女、この方が元明天皇としてお立ちになったわけです。つまり、首皇子から言えば、祖母になるわけでして、この祖母が孫の成長を見守りながら皇位を預かられたわけです。しかし、当時すでに四十七歳でしたから、八年後の七一五年、その娘の氷高内親王に後を継いで欲しいと言われ、そこで立たれたのが元正天皇であります。

すなわち、元正女帝は、祖父の草壁皇子が早く亡くなり、しかも伯父の文武天皇まで早く亡くなるということが重なりましたために、思いもかけず母君が元明天皇として即位され、その後を承けて皇位を継がれましたが、やがて九年後の七二四年、甥の首皇子(二十四歳)へのバトンタッチを果たされたのです。そういう意味で、いわゆる中継ぎの天皇であります。

けれども、中継ぎというのは、野球でもピンチの時にリリーフで登板した選手は、ピッチャーであれバッターであれ、リリーフだからこそがんばらねばなりません。そういう意味で、中継ぎとして立たれた母の元明天皇もそうですが、その後を継がれた娘の元正天皇も、大変重要な役割を果たされました。そのことを、もう少し詳しく見ておきたいと思います。

三、持統上皇の美濃行幸との関係

関係略年表を見ていただきますと、まず元正天皇がお生まれになられたのは、天武天皇九年(六八〇)であります。その後を少し飛ばしますが、大宝二年(七〇二)十二月に持統上皇が五十三歳で亡くなります。しかし、その一ヶ月前、かつて戦った壬申の乱ゆかりの場所である三河・尾張・美濃の三国を廻っておられます。しかも、その時、不破郡の大領(郡司)に位を授けたり、美濃の国司に禄を与えたりしておられます。この時、果たして養老まで来られたかどうか分かりませんが、ひょっとしたら養老の美しい湧水(菊水)についても評判を聞かれたかもしれない、と私は思っております。

そう推測するのは、「多伎郡」という行政地名が、この大宝二年三月、正史に始めて見えます。従って、それ以前の成立とみられますが、タギ・タギルとは「川の水などが勢い激しく流れる」ことを意味します。また、タキ(滝)というのも「急な斜面を激しい勢いで下ってくる水の流れ」「懸崖から激しく流れ落ちてくる水」を意味しています(いずれも『日本国語大辞典』)。

つまり、この一帯養老山脈から流れ出る勢いのよい川に瀬があり、とくに今も有名な激しく流れ落ちる滝がありますから、タギと名づけられたにちがいありません。とすれば、おそらく不破の国衙か郡衙(今の県庁か町役場)に来られた持統上皇が、隣の「多伎」(のち当耆・多芸)についてお聞きになり、そのさい美しい滝のことも、おいしい湧水(菊水)のこともお聞きになられた可能性が少なくないと思われます。

もしそう考えてもよければ、これが後に元正女帝の当地行幸が可能になった一因ではないかと想われます。この女帝は、持統女帝の孫にあたり、六八〇年のお生まれです。大宝二年(七〇二)に数え二十三歳ですから、美濃より帰京されたお祖母さまからタギの滝や湧水の話も聴かれたのではないか、と私は想像してます。

しかも、元正女帝は霊亀元年(七一五)に即位された時、すでに三十六歳です。今や長寿社会になりまして、四十歳近くても若い方といえるかもしれません。しかし、比較的短命な当時としては、三十六歳というのはかなりのお年であったと言ってもよいだろうと思います。母君の元明天皇が五十五歳でリタイアされたのも当然です。

当時は十五歳前後から結婚されるケースが多く、遅くても二十五歳くらいであります。ところが、氷高内親王はずっと独身でおられました。それは何故なのかといえば、おそらく母君の元明天皇が、首皇子の祖母として中継ぎをしたけども、やがて娘に後を継いで欲しいと考えられ、あえてこの氷高内親王を独身のままにされたのではないかとみられます。

およそ女帝というのは、即位後にお子さんをもうけられますと、いろいろ難しい問題が起きますので、独身でなければならないということが暗黙の前提になっていました。ですから、夫を亡くされた皇太后か、または未婚の内親王ということになる訳であります。この場合、母親が万が一に備えて、もしくは高齢の先を見越して、後を頼むよと言っておられ、それゆえ独身のまま氷高内親王が即位されたということになります。

四、元正女帝と聖武天皇の当地行幸

こうして即位されました元正女帝は、ご在任中(七一五~七二四)いろんなことをなさいました。その中で大事なひとつは、現在の養老へお出ましになったということであります。それは霊亀三年、(七一七)のことですが、その翌年、もう一度当地に来ておられます。これは非常に大きな意味があると思います。当時、天皇陛下みずから畿外へ出られることは稀にしかありません。それが、当地には一度のみならず二度までもお越しになったことの重要性は、あらためて考えてみる必要があると思います。

ちょっと横へそれますが、今年九月に岐阜市で国民体育大会の開会式があり、天皇・皇后両陛下のお出ましを頂きました。その際、ちょっと台風気味になりましたから、予定されていた大垣へお立ち寄りいただくことができませんでした。大垣の関係者としては大変残念だったと思われます。天皇陛下の行幸は、数年前に予定が立てられ、一年以上の受け入れ準備を整えたうえで実施されることになっていますから、もう一度お越し頂くことは不可能だと思われたからです。

ところが、最近皇居の中に勤めている方から、内々お聞きしたことですが、十二月の初め、両陛下が京都へお出でになります。今年は明治天皇が明治四十五年(一九一二)七月三十日に亡くなってちょうど百年でありますから、京都の伏見桃山にあります御陵へおそろいでお詣りになりまして、その翌日、岐阜の大垣をお訪ね下さるようです。これは全く異例のことですが、両陛下としましては、せっかく準備してくれた所へ行けなかったことを申し訳ないと思われ、特別にお考えくださったのでありましょう。

とはいえ、今なら新幹線か自動車で移動して行けますが、千三百年近い昔、奈良の都から鳳輦という御輿のようなものに乗ってお出ましになることが、二度もあったということは、まさに大変な出来事であります。では、そんなことが実際できたのは何故か考えてみますと、当時この美濃に国司として赴任中の人物が中央に働きかけたのではないかと思われます。

律令制度で中央から地方へ派遣される国司は、長官を国守(かみ)、次官を国介(すけ)と称しました。当時の美濃国守に笠麻呂という人がいたのです。この人は霊亀三年(七〇六)から美濃国守として赴任し、木曽路を開通させた功績などが高く評価され、十二年近く在任しています。

こういう実績のある国守ですから、おそらく奈良の都へ政務報告のために戻った折などに、ひょっとしたら元正女帝に拝謁して、美濃の自慢話をする際、多伎の滝や泉を見に来て頂きたいと申し上げたのかもしれません。今でも、天皇陛下の地方行幸は地元の知事から要請して、検討の結果、お越しいただけることになります。もちろん、国体は各都道府県で持ち回りということになっておりますが、それでも地元から要請が必要なのです。

もう一度年表を見ていただきますと、霊亀元年(七一五)即位された元正女帝は、いろいろ大事な働きをされまして、九年後の神亀元年(七二四)甥の首皇子(聖武天皇)が二十四歳になられましたので、ようやく譲位をされました。それからも二十余年間、上皇として甥のためにいろいろな後見役をしておられます。

その元正上皇が、かつて二度も出かけられた美濃国の多伎(当芸)に素晴らしい滝があり泉もあることをお話になり、「とてもいいところだから、いつか行ってらっしゃい」とお勧めになったのではないかと想われます。やがて聖武天皇も美濃の当耆郡の方へお出ましになり、不破の「宮処寺」や「曳常泉」にも立ち寄られた、ということが正史に書かれております。

実は今朝、早く参りましたので、従兄弟の車に乗せてもらい、その宮処寺跡や、曳常泉と言われるところを回ってきました。皆さんはご存じだろうと思いますが、南宮神社の近くに「垂井の泉」と言われるところがあり、あそこが曳常泉だろうと言われております。そもそも垂井という地名そのものが、泉や井戸に関わる所だと思います。

そういう所にもお出ましになったのは、その前に、叔母の元正上皇からその噂を聞かれたことがあり、それでは自分も行ってみたいと思い立たれ、お出ましになったのであろうと存じます。

やがて天平二十年(七四七)、元正上皇は六十九歳で亡くなられます。当時としては相当のご長寿といえるかもしれません。

五、元正女帝の研究と当時の評価

この元正天皇については、従来あまり研究が進んでおりませんでした。というのは、今でもなお一部そうですが、男性中心の社会では女性の活躍をあまり評価したがらない。だから研究もあまり行われない、という状況が長く続いてきました。けれども、平成に入るころから、歴史学界でも女帝への関心が高まり、研究も非常に進んでいます。

とりわけ最近(平成二十二年)渡邉育子さんと言われる方が、『元明・元正天皇』という題の本を京都のミネルバ書房という出版社から刊行されました。非常によく出来ていると思います。これは女性だからこそ女性の心理を推し測りながら、娘として母にどういう思いをもたれたか、また孫として祖母にどういう思いをもたれたのか、あるいは弟や甥に対してどういう思いをもたれたのか、というようなことが、確かな史料から丹念に読み解かれています。

実は私が見過ごしたり思いもつかないことを、史料に即して、時には史料の行間から読み取ろうとしておられます。まさに女性だからこそ思いを込めて解釈しておられるということが、言われてみて成程そうだなと思うことが、多々書かれています。

もちろん、昔と今では背景も環境も大違いですが、同じ人間として共通する心理もあると思われます。たとえば、若いとか老いるという感覚は、多少ずれがあるにせよ、いつまでも若くありたいとか、老いても元気でいたいという心理は、さほど変わりないと思います。

そこで、元正女帝についてみますと、初めて来られた時が三十八歳で、二度目に来られたときが三十九歳です。これは数え年ですけども、今流に言うとアラフォーということでしょうか。私の娘もほぼ近い年齢でして、しきりにお肌が気になるとか、衣装がどうかとか言っているようです。元正女帝もそういうお年頃だったのでありましょう。

だから、やっぱり若返りたいとか、若く見られたいという思いを持っておられたのだろうということは、私は男性ですけども、ちょっと推測できます。まして渡邉育子さん(六十歳)などは、私も二十年ほど前そうだったのよという思いで書いておられます。

こういう最近の研究も参考にしながら、以下申し上げます。裏付けの史料は、漢文を書き下しにしましたけれども、なお少し読みづらいかと思いますので、大事なところだけ申し上げて参ります。

最初の①は、七世紀から八世紀へかけて、日本が隋・唐から学んで律令社会を作ろうと努め、ようやく大宝二年(七〇二)「律令を天下諸国に頒ち下す」に至りました。今で言う憲法を制定して、全国に施行したというのが八世紀初頭のことであります。

その②「大宝令」の中に「およそ皇の兄弟と皇子を皆親王と為よ。[女帝の子も亦同じ。]」とあります。ここで何が大事かというと、天皇のご兄弟と男子を親王と言う、姉妹と女子を内親王と言うと定めていることでありますが、それに加えて、「女帝の子も亦同じ。」という原注がついています。これは中国の律令にはありません。先に申しましたとおり、中国では女性の皇帝を認めませんから、絶対法律に書かない。しかし、日本では憲法に当たる最高法規に「女帝」という言葉も、その女帝の子まで出てくるのです。

それゆえ、すでに飛鳥時代(ほぼ七世紀)から女帝が三方四代現れ、また奈良時代(ほぼ八世紀)にも三方四代の女帝が現れるに至ったのです。そのお一人である③持統女帝が美濃へ来られ、その孫にあたる元正女帝も当地へ来られたのです。

この元正女帝について④正史『続日本紀』が「天皇は、神識沈深にして、言必ず典礼あり」と評しております。神識とは神様ほど知識があって物知りだという解釈があり、要するに智恵も知識も豊かな方であったとみられます。

しかも「その言必ず典礼あり」ということは、仰ることがちゃんと礼儀にかない、筋が通っていた、と高く評価されております。こんなことがどの天皇にも書かれているわけではありません。こういう風な賞賛は、この元正天皇に関して書かれたことでありますから、まことに聡明な人間味豊かな方であったことが分かります。

さらに、元正天皇の即位詔書を見ますと、こういうことが書いてあります。「禅(母帝からの譲位)を受けて、大極殿に即位したまふ。詔していはく、朕、欽みて禅の命(勅令)を承け、敢へて推し譲らず。」母君から位を譲るので後を継ぐようにと求められ、私はお母さまのお気持を考えると断ることができず、敢えて皇位を受け継がせて頂きます、と云っておられるのです。これはまことに並々ならぬご覚悟であります。

これに続いて「祚を履み極に登り、社稷を保たむことを欲ふ。ここに左京職より貢れる所の瑞亀を得たり。位に臨まむ初めに、天より嘉瑞を表せり。天地の貺施、酬いずんばあるべからず。それ和銅八年を改めて霊亀元年とす」とあります。

つまり、自分が即位するに当たって、左京職(今でいえば都庁)から、瑞亀、珍しい亀を見つけたと報告してきた。よって、その霊妙な亀が現れたということを天から賜った吉兆とに喜び、和銅八年を「霊亀」という新しい元号に改められたことがわかります。これは女帝の即位が、そういう形で寿ぎ祝福されたということにほかなりません。

六、「美泉」への行幸と「養老」改元の理由

この元正天皇が、⑥即位三年目の霊亀三年(七一七)九月、ご当地に来られ、ついで「当耆郡に幸して多度山の美泉を覧たまふ。駕に従ふ五位已上に物を賜ふ」云々とありまして、まさしく「多度山の美泉」をご覧になったことがわかります。

では、この「美泉」とあるのは何なのか、また「覧たもふ」の覧というのは、どういうことをされたのでしょうか。大和言葉で同じく「みる」といっても、漢字ではいろんな字を書きます。見学の見もあり、看護の看もある。観光の観もあり、展覧の覧という字もあります。そのうち「覧」という字は「広く見渡す」(明解国語辞典)という意味を表します。元正女帝は当地へ来られて「美泉」のあたりを広く見渡され、大いに満足して奈良の都へ戻られたのだと思われます。

そして、それから二ヶ月後の十一月十七日、⑦の詔を出されました。これはご当地の皆さんなら良くご承知かと思いますが、大事な詔ですから、ゆっくり読んでみます。

天皇、軒に臨みて、詔していはく。朕、今年九月を以て、美濃国の不破行宮に到る。留連すること数日なり。因りて当耆郡の多度山の美泉を覧て、自ら手面を盥(あら)ひしに、皮膚滑らかなるが如し。亦、痛き処を洗ひしに、除き癒えずといふこと無し。朕が躬に在りては、甚だ其の験(しるし)有りき。

これは非常に面白い内容ですね。なぜかと言いますと、元正女帝が自ら体験したことを述べておられるからです。先般、九月に不破から当耆郡の多度山まで行って「美泉」を覧た。その泉の水を手に取って顔を洗われたところ、皮膚が滑らかになり、痛いところを水に浸したら、すっかり直った。しかも「朕が躬に在りては、甚だ験有りき」と念を押しておられますから、そうした効果が確かに現れたのでありましょう。実際そういう事がありましたよ、と言っておられるのです。

非常に正直なのは、続いて「また、就きて飲み浴る者、或ひは白髪黒に反(かえ)り、或ひは頽髪更に生ひ、或ひは闇き目明かなるが如し。自餘の癇疾、咸(ことごと)く皆平癒せりといへり」とあります。

自分はまだ体験していないけども、一緒に行った者が、地元の人々から聞いた話によれば、美泉の水を飲んだり水を浴びると、まず白い髪が黒くなると言う。私も近年だいぶ白くなっているのですが、白い髪というのは年を取った証拠です。それが黒くなる、と言うのですから嬉しいですね。また、これを飲んだら、「頽髪さらに生ひ」とあります。これはすごいですね。私もだんだん薄くなっていますし、会場にもかなり光っている方がおられますけれども、それが生えてくるというのです。さらに、これを飲むと、見えにくかった目がよく見えるようになり、他の病気も治る、ということを皆が言っている、と述べておられます。

元正女帝は当時三十八歳ですから、髪は黒かったかもしれませんが、お肌はちょっと心配な状態だったのか、手で水をすくい、洗ってみられたところ、お肌がきれいになられた。これはホンマに嬉しいという実感なのでしょう。だから翌年、わざわざ再度来られたわけです。

それ以外にも、髪が白くなったり、薄くなったのが再び生えてくるというのは、年寄りにとって本当に嬉しいことです。そのようなことは、日本だけでなく、すでに中国でも例があって「昔聞かまく、後漢の光武の時、醴泉出たり。これを飲みし者は、痼疾皆癒えたり、ときく」と書かれています。 中国でも後漢の光武帝の時に、養老のような霊泉がわいて、それを飲んだら皆病気が治ったというのです。

さらに「符瑞書にいはく、醴泉は美泉なり。以て老を養ふべし。蓋し水の精なり」とありまして、中国から伝わった「符瑞書」によれば、湧き出てくる美しい泉は老人を若返らせるが、それは水の精によって可能なのだ、ということが書いてあると述べておられます。

そこで「まことに惟(おもん)みるに、美泉は即ち大瑞に合へり。朕、庸虚なりと雖も、何ぞ天の貺に違はむ。」と続けておられます。つまり、中国でも湧き出るきれいな泉は体に良い、そしてお年寄りは若返ることができるとか、それは水の精のお陰なのだ、ということが言われている。だから、こういうものが出てきたということは、まことに目出度いのです。

当時、元正女帝の後を継いで女帝が続くことに、恐らく当時の宮廷社会で不満を言う人や、疑問を呈した人もいたと思われます。だからこそ、天は私に味方をしてくださり、このような美泉が現れたことは大瑞なのだ、大変おめでたいことなのだ、と強調しておられるわけです。

そこで、これにちなみ、全国に大赦して、罪を犯した者を放免されました。それのみならず、「霊亀三年を改めて養老元年とすべし」とのたまい、時の年号を改められたのです。さらに「天下の老人、年八十已上に、位一階を授く。百歳已上の者には、絁三疋・綿三屯・布四端・粟二石を賜ふ。」と高齢者を優遇しておられます。

これによれば、当時も高齢者がおられたのです。最近、高齢化社会になったと言いますが、昔でも百歳を越えた人はいました。そういう人々にご褒美を出された。それは霊泉が現れたことによって、人々に元気を与えることができ、また自分が即位したことを正当化することにもなったというわけです。

最後の方に「孝子・順孫・義夫・節婦は、その門閭に表して、身を終ふるまで事勿らしむ。」とありまして、この機会に親孝行の子とか孫とか、立派な夫とか貞淑な妻とか、道徳的に立派な人を表彰しようとしています。門閭に表すというのは、各家や村の入口に表彰を掲げておくということです。また「身を終ふるまで事勿らしむ」とは、税を免除するか減免するという措置を亡くなるまで続けることにされたのです。

これは儒教的な道徳観に基づき、家族を思いやるような人をお手本とすべきだとして、改元の機会にご褒美を出されたわけです。

さらに、この「養老」改元が行われた年末、⑧「美濃国をして、立春の暁に醴泉を挹み、京都(平城宮)に貢り醴酒と為さしむ。」とあります。この立春のために汲まれた「醴泉」あまい味のする湧き水というのは、ご当地養老から出されたのか、それとも武儀郡の牟宜都首(むぎのおびと)の方から出されたのか、いろいろ議論があります。

武儀郡の牟宜都首が都に水を献上することは、おそらく六世紀代から行われていた可能性があります。少なくとも七世紀にはっきりしております。しかし、この場合は、元正天皇がお出ましになり、養老改元の行われた直後ですから、たぶん当地から献上した水だろうと思われます。

やがて⑩聖武天皇が二十二年ほど後(七四〇)にこの美濃国の当耆郡へお越しになりまして、不破(垂井)の宮処寺や曳常泉に幸したもうとあります。これは先に申しましたとおり、おそらく叔母の元正上皇が助言されたからだろうと思われます。

むすびー「変若水」の瀧ー

最後に「万葉集」を引いておきました。その一つは聖武天皇の行幸に随行した大伴宿禰東人の作る歌でして、「古(いにしえ)ゆ人の言ひける老人の 変若(お)つとふ水ぞ名に負ふ瀧の瀬」とあります。もう一つは大伴宿禰家持の作る歌でして「田跡(たど)河の瀧を清みか古ゆ 宮仕へけむ多藝(たき)の野の上に」とあります。「古ゆ」は昔から、また「変若つ」はおつと読みまして若返るということです。

この大伴家持の歌は「古ゆ宮仕へけむ」とありますので、これは明らかに二十年余り前に当地へ行幸された元正女帝のことを指しています。ですから、その元正天皇の時の「多度山の霊泉」というのと、この大伴東人や大伴家持の詠む「瀧の瀬」とか「多藝の野」というのと、どう関わって考えていくのかということが問題です。

私は今日、滝まで参れませんでしたが、霊泉の湧き出ているところに行き、あるいは垂井の泉などを見まして、この美濃というところは、とりわけ水の豊かなところであり、それゆえ郡名も多藝と称するとおり、まさに川の水がたぎる、養老山脈から溢れ出るところであります。

その水の豊かな美しい、しかもそれが人の疲れを癒すどころか、老いを若返らせるほどの水だ、それが東人の言う「老人の変若つとふ水ぞ名に負ふ瀧の瀬」です。これは明らかに川の流れる瀬を言っているのだと思います。とにかく豊かな水のたぎるよい水の流れる川があり、そこにもっと素晴らしい美泉がある。それが多度山のふもとの霊泉である。そこへ元正女帝がお出ましになり、また聖武天皇もお出ましになった、いうことなのです。このあたりは本当に良い水に恵まれ、すばらしい自然に囲まれた、いわば水のパラダイスだと誇りにしてよいと思います。

そういうところで、五年後に控えております「養老改元千三百年」にちなんで、いろいろな企画をお進めになるということは、まことに時宜を得ていると思われます。二十一世紀は最初に申し上げたとおり、いろいろな問題がありますなかで、一番の問題は食糧問題、つきつめては水問題だという。その水というものをどう活かしていくかということです。

ご当地の皆さんは、この水を大事にしておられると思いますが、水の大事さというものをもっとアピールしていくために、いろんなことができそうです。身近なことでは、先ほど聞きましたが「菊水泉の水」などをもっと大々的にPRしたらいいと思います。サミットで各国の代表に提供したら、世界に広がるかもしれません。フランスなどからわざわざ水を輸入するのではなくて、日本から養老の水を送り出したら良いではありませんか。あるいは元正女帝がここへ来られ、この水でお肌が美しくなったといっておられるのですから、最高級の化粧水を作られたらいいではありませんか。

このようなことをいろいろ考えながら、「養老改元千三百年」を単なるイベントに終わらせないで欲しいと願っております。清らかな水は、養老にとっても岐阜県にとっても日本にとっても、さらに言えば世界中の人々にとっても大事なものですから、それを大事にすることにより、我々も生きていけますし、多くの人とともに活かしていく。そういう心豊かな時代を迎えることができるのではないでしょうか。そんな夢を現実に近づけるための千三百年祭にしていただけますならば、まことに有り難いと思います。ご清聴ありがとうございました。                                                                     (入力・校正、橋本秀雄・後藤真生)

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