(5)出雲を訪ね大社の遷御を拝して-前半



五月十日(金)出雲大社で”大遷宮”が斎行された。これは、伊勢神宮のように二十年という一定年数の造替ではなく、六十年ぶりに大修理を終え行われた遷宮である。従って、次の大遷宮は数十年先であろうから、七十一歳の私としては、何とか今回の遷御を奉拝したい、とひそかに念じていたところ、幸い夢が叶えられた。

そこで、その概要を報告しながら、最近完結した、田中卓博士の続著作集(全六巻)の第一巻(一昨年十二月刊)所収論文に基づいて、出雲氏と出雲大社の関係などを正しく理解する一助としたい。

その一
出雲大社の本社と摂社めぐり
今月は公私の用事が多く、出雲には一日半しか居れなかった。しかし、その間モラロジアンであり京都産業大学のOBでもある地元の伊藤さんや、昨年、『古事記のわかる事典』(PHP研究所)の監修をした際の企画担当安部さんなどが、親切に大事な所を案内して下さり、感謝にたえない。

九日午後、まず平成二十年から御神座が遷され仮本殿となってきた拝殿へ詣り、そこで遷御ご準備中の千家権宮司様や島根県神社庁参事の錦田さんなどにも会うことができた。

ついで、御本殿をとりまく瑞垣(みずがき)内外の摂社や末社を巡拝した。(pdf地図参照)

その配置を確認すると、(イ)本殿の北東に祀られる大国主命の神座は、稲佐の浜のある西向きとなっている。(ロ)その北奥(八雲山の麓)に素戔嗚尊を祀る摂社の素鵞社(そがのやしろ)がある。(ハ)本殿の東側には、須勢理比売命(すせりひめのみこと、大国主命の大后)を祀る御向社(みむかいのやしろ)、また本殿の西側には、多紀理比売命(たぎりひめのみこと、大国主命の妃)を祀る摂社の筑紫社(つくしのやしろ)がある。(ニ)西側垣外には、出雲氏の祖神である天穂比命(あめのほひのみこと)とその十七代と伝えられる国造初代の宮向宿彌(みやむきのすくね)とを祀る摂社の氏社(うじのやしろ)が二社並んでいる。

このうち、(イ)大国主命(大神)は、(ロ)素戔嗚尊の六世孫とも伝えられるが、いわゆる天神と地祇の分類で地祇の筆頭とされる。それに対して(ハ)須勢理比売命な、素戔嗚尊の娘と伝えれれ、また多紀理比売命は、天照大神と素戔嗚尊との誓約(うけい)により生まれた筑紫の宗像三女神の一柱である。とくに注目すべきは(ニ)天穂比命も、天照大神と素戔嗚尊の誓約による御子神だから、いわゆる天神系であるが、高天原より葦原中国に降臨してから大国主命に媚び従い、その子孫の出雲氏(のち国造家)は地祇代表の大国主命を奉斎していることである。

これを出雲氏(国造家)の立場でいえば、氏祖神は天神系の天穂比命であるが、奉斎神は地祇の大国主命であり、氏祖神よりも奉斎神を中心に御本殿で祀っていることになる。

さらに境外の摂社も数多くあるが、その一つで参拝したのは、本社東方約二〇〇㍍の命主社(いのちぬしのやしろ)である。ここに祀られる神産霊神(かんむすびのかみ)は、兄の八十神(やそかみ)たちに迫害されて生死の境にあった大国主命を救い、国作りを助けたことでも知られる。その背後の巨大な磐座(いわくら)がある真名井遺跡から、弥生中期ころの立派な銅矛と美しいヒスイの勾玉が出土している。

しかも、銅矛は九州北部から、ヒスイは北陸の糸魚川流域からもたらされたもので、当時すでに日本海側で広域の交流(交易)が行われていたことを裏付けるものとみられる。社殿の前には樹齢1000年以上という椋の巨木があり、最近パワースポットとして知られる。

なお、同夜、京都産大出身出雲同窓会(会長平野さん)主催の会合で「出雲大社と伊勢神宮の遷宮」について講述し、零時近くまで有志と懇親を深めた。

(5月20日記)

添付資料

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