その二
神庭荒神谷と加茂岩倉の遺跡
十日午前はかなり強い雨であったが、数カ所廻ることができた。大社から車で約20分の日御碕(ひのみさき)神社は、昨年十一月お詣りしたので、今回は失礼したが、ここの上の宮には素戔嗚尊、下の宮には天照大神が祀られている。
この上の宮は、尊の五世孫の天葺根命(あめのふきねのみこと)により祀られ、『出雲国風土記』では「美佐伎社」(みさきのやしろ)と称される。また下の宮も、大神を尊が初め経島(文島)に祀られたが、のち平安中期に現在地へ遷され「日沈宮」(ひしずみのみや)と称されている。天神代表の天照大神が早くから祀られ、しかも東国への出口にある伊勢の神宮を”日出る宮”とするのに対して、この島根半島西端の当宮が”日沈み宮”とされているのが面白い。
当日は大社付近が混むとみて、朝早く出雲モラロジー代表世話人西村さんの車で南下し、まず斐伊川の畔(ほとり)にある万九千(まんくせん)神社へ詣った。古来、旧暦十月(一般に神無月)下旬、全国から出雲へ集まった神々は、大社境内の末社「十九社」に泊まり、境外の摂社「三宮」で縁結びなどの会議をされ「神在祭」を経て、各地へ帰る際この神社へ立ち寄る。「神等去出祭」(からさでさい)をすることが今も行われている。
そのあと、神戸川沿いに遡り、佐田町(もと飯石郡)須佐の須佐神社へ詣った。『出雲国風土記』に「須佐社」とみえる当社は、ここで生涯を終えたという須佐之男命を主祭神とし、その妃稲田比売命と妃の両親(足摩槌命・手摩槌命)も併せて祀る。その本殿は立派な大社造であり、本殿の裏手には樹齢千三百年と伝える大杉が聳え立ち、最近パワースポットとして若者の参拝も多いという。
つぎに、十数年前(平成九年六月)神道史学会の見学会で始めて訪れた神庭荒神谷(かんばこうじんだに)遺跡を再訪した。この出雲市(旧簸川郡)斐川町神庭西谷にある遺跡は、昭和五十九年(一九八四)発見され、整然と並べて埋められた銅剣三五八本・銅矛一六本・銅鐸六個が一挙に出土して以来、学界でもマスコミでも注目され、充実した展示館まで設けられている。
しかも平成八年、ここより東南約3キロ(雲南市加茂町岩倉(もと神原郷)の加茂遺跡から、銅鐸三一個が纏まって出土した。また、この北西約2キロに聳える大黒山(三一五㍍)には、大国主命が国見をされたという伝説がある。さらに、この神原郷の中心にある式内社の神原神社は、元社地が前期古墳の上にあり、そこから「景初三年」(二三九)の三角縁神獣鏡が発見されている。
その三
県立歴史博物館の『出雲大社展』
同日午後、車で出雲へ戻り、伊藤さんの営む店で美味しいコーヒーを頂き、大社の神門前「御縁横町」で旨い出雲ぜんざいをふるまう坂根さん(京産大OB)の店に荷物を預けて、島根県立古代出雲歴史博物館の特別展「出雲大社展」をじっくり見学した。
その図録が凄い(A4判二九〇頁で重い)。同名誉館長上田正昭博士の巻頭論文をはじめ、全七章に全展示品の写真と解説と興味深い論文級のコラムおよび古社の略記や大社の年表まであり、学ぶこと考えさせられることが多い。
とくに同学芸員森田喜久男氏の執筆された「国譲り神話と出雲大社」などが面白い。近年、「大和王権」と対抗した「出雲王朝」の存在を誇張する論者が少なくないけれども、森田氏は異を唱えておられる。
すなわち、記紀神話によれば、大国主命は国造りの途中で兄神たちに苦しめられた際、「高天原のカンムスビ(神産霊)の助力を得て」おり、国譲りの時、賛成派に発言させ反対派に力較べさせた後、自らの決断を下している。
これは古代地域社会の首長であった”国主”のあるべき姿を示しており、神話での”国譲り”を「歴史的事実としては、ヤマト王権の地方官である国造になることで、ヤマト王権の権威をバックに地域社会の支配を強力に進める・・・・平和的な支配なのだ」と評される。それゆえ、大国主命を奉斎する出雲国造が、奈良・平安時代にも「その地位に就くと、上京して天皇の面前で祖先神アメノホヒ(天穂日命)の神話を語り、「神賀詞奏上儀礼」は、「服属儀礼でなく、天皇の長寿と国家の安寧を祈る儀式」とみなされている。
このような見解は、従来の王権支配・服属史観よりも古典に忠実といえよう。ただ、その「国主」首長が実在した年代は「六世紀に”国造制が施行される以前」と述べるに留まる。まして同学芸員平石允氏の執筆された「杵築大社の創記」では、天平五年(七三三)成立の『出雲国風土記』に「杵築大社」「天下知らしし(大国主)大神の宮」とみえる出雲大社の神殿が創建された年代を、『日本書記』斉明天皇五年(六五九)条に求める。これは國學院大學岡田荘司教授の説に拠っているが、記紀などに照らして納得し難い。
その四
出雲の国譲りと大社の創建
岡田教授や平石氏等が論拠とする『日本書紀』の記事(原漢文)には、「是歳(斉明天皇五年)、出雲国造[名を闕く]に命じて、厳神之宮(いつくかみのみや)を修めしめらる。狐、於友(おう)郡の役丁の執れる葛の末を噛ひ断ちて去りぬ。・・・」とある。
この「修」を修理でなく「新造」と解し、「厳神の宮」を杵築=出雲大社とみなすのが、岡田教授の説である。しかし、すでに田中卓博士が論破されたごとく、やはり「修」は一般に修理・修造(繕い直す)ことを意味するから、これを特別に「新造」と解することはできない。
また「厳神の宮」は、この修造に「於友(意宇)郡の役丁」が動員されているから、律令時代に国衙の置かれた意宇郡と隣接する八束郡(現在松江市の中心から南約5キロ)にある「熊野大社」とみなすのが自然であろう。
この熊野大社は、もと熊野山の山頂(巨大な磐座あり)に「熊野大神」(素戔嗚尊)を、初め意宇郡に本貫のあった(のち西方の出雲郡へ移った)出雲国造が祀ってきた。
従って、出雲国造の代替わりごとに斎行される「火(霊)継式」(ひつぎしき)の鑽火(きりび)も、毎年十一月出雲大社で斎行される「(古法)新嘗祭」に先立つ十月の「鑽火祭」(さんかさい)も、この熊野大社の鑽火殿で行われる。
されば、出雲大社の神殿創建は、この記事と関係がなく、より古い神話・伝承によって考えなければならない。それを丹念に検証された田中卓博士の論は、雄大な日本建国史の一環として解き明かされたもので、極めて説得力に富む。その結論を私なりに要約すれば、次の通りである。
①出雲氏の祖神「天穂日命」は、天照大神の御子神(天神系)で、天孫の瓊々杵尊に先立って葦原中国へ遣わされたが、三輪氏の祖神「大国主神」(大物主神)に媚び付き、その地祇の神を奉斎するに至った。これは北九州(神話では高天原)に起こった「ヒ」の神を奉ずる勢力の一派が、早くから本州畿内(神話では葦原の中国)へ進出したが、「モノ」の神を奉ずる在地の有力な三輪氏の勢力下にとり込まれた史実の反映とみられる。
②やがて天孫の瓊々杵尊が降臨されたという神話も、一世紀初めころと推測される神武天皇の東征伝承を反映したものとみられる。その神武天皇が畿内大和に入り勢力を築き始められると、先に来ていた出雲氏の勢力は、大和から山陰の出雲への移動を余儀なくされた。ただ、出雲氏の一部は、早くより北九州から日本海沿いに出雲地方へ移っていた可能性もある。
③記紀の国譲り神話では、高天原から出雲へ遣わされた建御雷神が、大国主命に対して「天照大神・・・汝がうしはける(占有する)葦原中国は、吾が御子の知らす(統治する)国ぞと言よさし賜ひき」と伝えて国譲りを迫った際、子神の事代主神は反対して力競べを挑み、負けて諏訪へ逃れたという。
これは三世紀前半ころ、崇神天皇が物部一族の武諸隅を出雲へ遣わされ、重要な「神宝を朝廷に献ぜ」しめようとされた際、弟の入根は早速「皇命」に従い神宝を献上したところ、「筑紫国」から帰った兄の振根が怒って入根を殺したので、再び吉備津彦と武渟河別が遣わされて振根を平定した、という伝承の反映とみられる。
④このような大和朝廷から遣わされた物部氏が出雲勢力の「国の神宝を検校」したことは、次の垂仁天皇二十六年紀(三世紀後半か)にもみえる。これは出雲氏にとって危機的は重大事であり、その降伏に先立ち貴重な「神宝」の銅剣・銅矛や銅鐸を隠し埋めたとしても不思議ではない。
それが神庭荒神谷と加茂岩倉の両遺跡に埋納されていた夥しい青銅器(その多くに威力減封の×印が刻されている)とみなされる。さらに、神庭神社古墳の被葬者は、誅殺された出雲振根かもしれない。
⑤従って、出雲(杵築)大社は、大国主神が「この葦原中国」を献上する代りに「僕の住所」を「天神の御子の天つ日継知ろしめす・・・天の御巣(宮殿)」と同様の高大な神殿を建立してほしい、と所望したという国譲り神話も、垂仁天皇朝ころの出雲神宝検校・献上伝承の反映と考えるならば、出雲国造の先祖が「”同殿共床”の様式」を発展させた形で「三世紀後半から四世紀初頭の創始(創建)とみてよい」ことになろう。
その五
出雲大社「平成の大遷宮」
この出雲大社の本殿は、かつて高さが十六丈(48メートル)もあったと伝えられる。平安中期の『口遊(くちづさみ)』に「雲太、和二、京三」とあり、出雲の大社が一番、大和の大仏殿が二番。京都の大極殿が三番とみえる。
事実、平安末期の記録にも「天下無双の大廈」と称される。また鎌倉中期の本殿「宇豆(うづ)柱」も「心御柱」も、古図面のとおり、杉の巨木三本を金輪で纏めて直系3㍍近くもあることが、平成十二年に発見された。さらに江戸後期の延享元年(一七四四)造営された現在の本殿は、半分の八丈(24メートル)の高さながら、比類なく大きい。
その修理遷宮は、文化元年(一八〇九)・明治十四年(一八八二)・昭和二十八年(一九五三)についで、今回六十年ぶりに行われたので「平成の大遷宮」と称される。この機会に本格的に大屋根の檜皮(ひはだ)を葺き替え、棟飾りの千木や鰹木に修理を加え、四周の縁板なども付け替えられた。
こうして修繕された本殿への遷御祭儀が、午後七時より斎行された。幸い雨は夕方から止んだが、本殿を囲む瑞垣内の奉拝席(数百名分)にはテントを張り、垣外の奉拝者(数千人分)にはビニール合羽が配られていた。盛和塾の矢崎さんたちと本殿の北東角テント席にいた私は、木壁面に取り付けられた大きなテレビ画面を通して、浄闇の中で執り行われつつある遷御の大まかな状況を拝見することができた。
その大要は、絹垣に囲まれた御神体の大行列が、仮殿を出て瑞垣の外を廻り、八足門から入って本殿の木階を昇った。殿内では、北東の御神座に大国主大神が奉安されると、その前で出雲国造(宮司)が四度拝して神賀(祝詞)を奉読された。
その際、奉拝席の人々が一斉に拍手し唱和したのは、伊勢の式年遷宮では見られない光景として印象深い。しかも、続いて勅使(筑波和俊掌典)の祭文奏上、皇族(彬子女王と典子女王)の拝礼などが写し出された。そして九時半に修了の太鼓が鳴った途端、テントを叩き付けるような強い雨が降り始めたのには、みんな本当に驚いた。
その帰路、大雨の中を数千人の奉拝者が動き始めた。けれども、まったく混乱が起きず、粛々と先へ進む行儀の良さに、あらためて日本人のモラルは今なお高いと感心した。私は翌十一日、岐阜で二つの会合(午前に東洋文化振興会、午後に霊山顕彰会)へ出講するため、出雲市駅から快適なJR夜行バスで京都に向かった。またとない機縁に恵まれたことに深く感謝している。
(平成25年5月25日稿)