(3) 美濃の名水ー養老の「菊水」と武儀の「森水」など(下)



一方、武儀郡洞戸村(現在関市洞戸)から来られた武藤末彦さん(七十八歳)とは、まったくの初対面であるが、従弟の秀雄君は洞戸中学校に校長として勤めた頃から良く存じ上げているという。

この日は、昨秋養老へ講演を聴きに来られた林憲和氏(家内の勤めていた岐阜聖徳学園大学の幹部職員)が案内して下さり、奥長良川名水株式会社の営業本部長も一緒に来られた。これも不思議なつながりである。

私は振り返ると四十年ほど前から、上代(飛鳥・奈良・平安時代)の宮廷儀式・年中行事を主に研究してきた。そのひとつとして、毎年正月に「牟義首」(むげつおびと)が「立春水」を献上する行事がある。この御用を務めたのは、美濃国武儀郡にいた名族であるが、なぜ当地から献上したのか、それはいつごろから行われていたのか、史料が少なくて明確にできない。

ただ、元正女帝が初めて養老へ行幸された時(七一七年)、当地で諸雑事に奉仕したのは、多伎郡の人々だけでなく「方県・務義二郡の百姓等」もいたことが『続日本紀』に記されている。これは武儀一帯(中濃)に勢力をもっていた牟義首が、古くより(記紀によれば4世紀初めころの景行天皇あたりからの)、大和朝廷に良質の「醴泉」などを献納する実績をもっていたゆえに、この時もわざわざ多伎(西濃)まで召し出されたものと考えられる。

事実、武儀地方も名水に恵まれている。とりわけ高賀山系の麓に新宮神社(八幡町)、星宮神社(美並村)、滝神社(美濃市)、高賀神社(洞戸村)などがある。白山を開かれた泰澄大師も鉈彫で知られる円空さんゆかりの伝承も多い。この山麓から湧き出る水で「美濃和紙」を漉き、洞戸村の人々と共に豊かな自然を守ってきたリーダーが、県会議員の船戸行雄氏(故人)や村長の武藤さんなどである。

船戸県議は、若いころから教育正常化運動に取り組み、日本教師会の会長として稲川先生が岐阜市で全国教研大会を主催され、また教育基本法の改正要望決議を県議会に働きかけられた時など、熱心に応援してくださった。その船戸さんが、平成八年(一九九〇)、円空さんの奉納和歌などの伝存する高賀神社の境内に御手洗場として井戸を掘ったところ、それが体に良いと好評を博した。そこで、村起こしのため、同十一年に奥長良川名水有限会社(五年後から株式会社)を設立して「高賀神水(のち森水)」の販売を始めたのである。

この会社は、現在中村隆春社長が引き継ぎ、多種多様なミネラルウオーターを製造し、国内だけでなく海外にも進出している。そのなかには、大学や会社の名前をデザインしてラベルに貼ったものから、酸素・水素・カフェインなどを入れたり五年保存できるものまであるが、社是は「水を飲むに井を掘りし人を忘れず」だという。そうであれば、千数百年前から朝廷に「立春の若水」を献納してきた先人の恩を忘れず、再び皇室に「立春水」を献上できるほどになってほしい、というような想いもふくらんでくる。

ふるさと美濃には、揖斐・長良・木曾の三川が流れ、その上流に養老や武儀だけでなく、いろいろな名水がある。たとえば私の郷里揖斐川町の市場には、南北朝時代、後光巌天皇の頓宮(仮御所)瑞巌寺を尋ねて来た関白の二条良基が、長旅の疲れで息絶えかけた時に一口飲んで生き返った、という「関白蘇生(そせい)の水」が今も湧き出ている。

また郡上八幡には、戦国時代、武将で歌人の東(とうの)常縁に「古今集」の秘伝を授けてもらうため訪ねてきた連歌師の飯尾宗祇が、ここで別れの歌を詠み交わした、という「宗祇清水(しみず)」が今もあり、日本の名水100選に入っている。

まさに美濃は名水の宝庫である。これもみんなで末永く大事に守っていきたい。

(三月二十五日稿)

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