(3) 美濃の名水ー養老の「菊水」と武儀の「森水」など(上)



「水都」と称される大垣の駅近くで行われた第三回の汗青会公開セミナーには、初めて意外な方が来会された。その一人は、養老サイダー社長の日比野武司君。もう一人は、旧洞戸村々長の武藤末彦さんである。縁(えにし)とは不思議なもの。そのわけを少し長くなるので二回に分けて略述しよう。

昨年十一月、私は養老町主催「養老改元一三〇〇年祭」(五年後の二〇一七年)に向けて制定された「養老の日」(十一月十七日)記念式典に招かれ、「元正女帝と養老改元の画期的意義」と題する講演をさせて頂いた(その記録をこの「日本学広場」に四月初めから三回に分けて連載の予定)。

その中で、養老山の麓には滾(たぎ)るように勢い良く湧き出る「菊水」があることを聞かれた元正女帝(三八歳)が、霊亀三年(七一七)当時公的に多伎(たぎ)郡と称されていた当地へ、わざわざ奈良の都から行幸されたこと、そして「菊水」で顔や手を洗われたところ美しく若返ったと実感されて、まもなく年号を「養老」と改元し、翌年再び行幸しておられること、それほど若さを保ち老いを養うという由緒ある水が今も滾々と湧き出ているのだから、これを国内外へ大いに売り出されたら良いのではないか、というようなことを話した。

すると、町役場の方から、それは既に以前から「養老霊泉」と名づけたものがあり、それを此度「菊水泉の水」という新名称のミネラルウオーターとして売り出すことになった、と教えられボトルを一本いただいた。そのラベルにはアルカイックな女性(元正女帝のイメージ)が描かれており、まことに爽やかで美味しい。

その後(十二月中旬)、大垣北高十一期生(昭和三十五年三月卒)のうち、首都圏にいる二十数名が、私の住む神奈川県小田原市で同期会を開いた際、この「菊水泉の水」を製造先の養老サイダーにFAXで注文して取り寄せ(参考までに二ダース送料込み三,九〇〇円)、みんなにプレゼントした。すると、鎌倉から来たN君に「これ小・中・高とも一緒だった日比野武司君のところで作っているんだよ」と言われて、皆ビックリすると共に、それじゃ大いに応援しようということで盛り上がった。

それ以来、私も勤め先のモラロジー研究所や講演先の懇親会などで、PRに努めている。「これを飲めば、男女を問わず顔も肌も美しくなり、まして親孝行な人が飲み続けたら、お水がお酒に変わるかもしれません」などと冗談半分にいうと、興味をもって注文される方が少なくない。

そこで、三月二十日の集いでも、これを参加者にプレゼントするため、前日小田原から養老にFAX(〇五八四・三二・三二一四)しておいた。すると、当日開会直前、何と日比野君が御令息(四〇歳)と一緒に現れたのである。しかし、まったく声が出ない。数年前、咽頭癌の手術をしたからだが、メモ用紙に達筆で「僕は三年D組で稲川先生が担任だった。今日はこれを先生に供え、皆さんに飲んでほしい」と書いて示され、思わず涙をこらえることができなかった。

まもなく開会。まず橋本氏の司会で先生に黙祷を捧げた。ついで私が挨拶を兼ねて三〇分ほど、用意した資料(三月四日、皇太子殿下が国連本部で特別講演された日本語全文と参考図版ー宮内庁ホームページより)に基づき話をする予定であったが、日比野君に再会できた感動さめやらず、また次に述べる「高賀森水」のことなどにも触れるうちに時間となり、メイン講師の廣瀬氏に代わった。正に恩師と同じ高校歴史教師の道にいそしんできた同氏の初心を、正確な資料とレジュメに基づき話してくれたが、あの世の先生もさぞ喜ばれたことであろう。

ただ、私は当日午後、前勤務先の京都産業大学「むすびわざ館」(壬生校舎)で開かれる近畿のOB・OG交流会に出講を求められたので、十一時に退席させてもらった。すると、出口で日比野君から「今日養老で菊水泉の若水取り式を行うため、申し訳ないが中途で失礼します。明日奈良の元正天皇陵へ献納に行ってきます」とのメモを手渡され、二度ビックリした。

彼と私は、北高時代お互いに隣のクラスでも言葉を交わした記憶すらないが、半世紀以上経った今日、稲川先生の縁により再会することができた。しかも、地元で家業を受け継ぎ、養老まで行幸された元正女帝への献水を今も続けていることに、只々感服するほかない。こういう誠実な人々によって、郷土も日本も守られ支えられているのだと思われる。

(三月二十三日、以下次回)

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