(20)富岡製糸の偉業から学ぶこと



昨日(六月二十一日)名古屋のNHK文化センターで「皇室の伝統と日本文化」というテーマの集中講座(三時間)を務めてきた。土曜日のせいか来聴者が多く、休憩時の質問レベルが高いのにも感心した。

その初めに、昨日夕方、ユネスコ委員会で世界文化遺産として正式登録が決定した「富岡製糸場と絹産業遺産群」の話題をとりあげ、ネット上に公開中の「皇后陛下のご養蚕」も一部映写してから本題に入った。

この富岡製糸場については、小中高の教科書に簡単ながら必ず載っており、また数年前からマスコミでも盛んに紹介されている。しかし、歴史家のはしくれとしては、現地を訪ね確かめる必要があると思い、数日前(十七日)出かけた。

JR高崎駅から上信電鉄に乗り換え、上州富岡駅で自転車を借り(無料)、地図を片手に市内をあちこち廻ってから製糸場をゆっくり見学。閉門後、蚕の姫大神をも祀る貫前神社(上野国一宮)まで往復八キロ余りサイクリング参拝をしてきた。

その一 渋沢栄一と尾高惇忠
日本の養蚕は、五世紀の雄略天皇朝から朝廷でも行われていたことが『日本書紀』にみえる。それが全国に広まり、良質の絹糸が律令政府や荘園の領主などに貢納され、近世には各地で家内産業となった。

しかも、生糸の生産は、幕末から明治にかけて、開国後の日本が欧米に輸出できる最有力の産業となった。その養蚕・製糸を明治四年(一八七一)から皇居の中で始められたのが明治の皇后(昭憲皇太后)であり、翌五年から近代的な官営事業として始まったのが群馬の富岡製糸場にほかならない。

この事業開始に尽力した功労者は数多くいるが、特に注目すべきは現埼玉県深谷市で藍玉と養蚕を営んできた渋沢栄一(一八四〇年生まれ)と、その妻の兄(儒学の師匠でもあった)尾高惇忠(一八三〇年生まれ)である。

渋沢は慶応二年(一八六六)ヨーロッパ諸国をまわり、当時フランスもイタリアも蚕の病気で生糸生産が壊滅状態にあることを知って、明治二年(一八六九)新政府の大蔵省に入ると、生糸を輸出の代表とするため、富岡製糸場の開設に主力を注いだ。その初代場長となって成功に導いたのが、人望の厚い尾高である。

もちろん、その工場建設と技術指導に貢献したのは、優秀なフランス人P・ブリュナなどお雇い外国人である。ただ、彼等が数年で帰国すると、その間に万事習得した日本人が、幹部も工女も一丸となって上質な生糸を作り、その技法を全国各地に弘めている。

その二 原合名会社と片倉製糸
この富岡製糸場は、最新の機械と高度の技術をもたらしたフランスなどから、資本まで出して直轄下する提案もあったが、新政府の伊藤博文らは独立を守るために巨費を投じて官営事業とした。

しかし、その経営は容易でなかった。他の官営工場と同様、一応基盤ができると民営化されることになり、明治二十六年(一八九三)三井高保に払い下げられた。その運営には、大分県中津出身の福沢諭吉門下生が深く関与している。

ついで、九年後の明治三十五年、この製糸場を三井から譲り受けたのが原冨太郎(三渓)である。原家は、幕末から横浜に出て生糸問屋を営み成功した善次郎の没後、岐阜出身で婿養子に迎えられていた冨太郎が、富岡製糸場などを手に入れ「原合名会社」とした。

彼は場内に設けた養蚕改良部・蚕糸研究課で品質向上に努め、最新式の機械導入などに力を入れて、生産を飛躍的に増大した。大正時代の日本全国総生産高は、世界の六割も占めたという。

しかし、昭和に入ると、人絹糸(化繊レーヨン)が出廻り、アメリカ大恐慌の影響もあって、富岡製糸場の経営は昭和十四年(一九三九)、原から片倉製糸紡績株式会社に移された。

片倉家は、明治時代から現長野県岡谷市・松本市で製糸業を営んで成功した兼太郎の没後も、弟らにより事業を拡大していた。冨岡製糸場を入手したころから戦争状態となったが、苦難を耐え抜き、戦後も頑張って昭和六十二年(一九八七)まで操業を続けた。

その上、以後も片倉工業が製糸場の修繕・管理に努め、平成十七年(二〇〇五)一括して富岡市に寄贈した。だからこそ、このたび近代化の模範的な産業遺跡として世界文化遺産に登録されえたのである。

その三 遺産解説員と行啓記念碑
この富岡製糸場では、十年程前から世界遺産伝導師協会などが作られ、研修を積んだ解説員数十名によるボランティア・ガイドが毎日(各回約四十分)行われている。私の時も中年の上品なKさんが懇切に案内してくださり、かなり難しい質問にも的確に答えられた。

ただ、入口脇に立つ大きな「行啓記念碑」は、通常の案内コースに含まれていない。そこで、帰り際に碑を仰いでいたところ、解説員のO氏が気付いて説明された上に、碑文のコピーまでくださった。

この碑は、明治六年の皇太后・皇后両陛下行啓から七十年後の昭和十八年(一九四三)、徳富蘇峰翁の撰文で建てられ、その中に「いと車とくもめぐりて大御代の冨をたすくる道ひらけつゝ」という美子(はるこ)皇后さまの御歌も引かれている。

しかし、それから七十余年後の今日、製糸場は世界文化遺産となったが、もはや製糸業を行いえない遺跡と化している。一方、皇居内では美智子皇后さまによって護られた純国産の蚕(小石丸)による絹糸で正倉院御物などの復元も行われている。

このような事実から、私共は何を学ぶことができるだろうか。

(六月二十二日記)

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