(52)京都産業大学の創立五十周年記念式典と前後の出来事



はや師走。一年の速さに驚くほかない。「しはす」とは「為し果つ」なすべきことをし終える意、といわれる。けれども、齢のせいか、仕事が思うように捗(はかど)らない。しかし、この数日間、楽しい出来事が続いた。その一端をメモしておこう。

十一月二十六日(木)午前、靖国神社の菊花奉献会(入賞者授賞式)に出席。今秋から同会の会長を拝命して、開会の挨拶を求められた。その中で「菊は桜と共に日本のシンボルだから、五年後の東京オリンピック・パラリンピックでは、メダリストに渡すブーケにも菊が採用されるよう、関係者に働きかけながら菊作りに励んで頂きたい」旨を申し上げた。

その午後、宮内庁書陵部で東山御文庫の後桜町天皇宸翰マイクロフィルムを複写、また国立公文書館で大正大礼記録の精巧な絵図を勉誠出版のスタッフと共に拝見した。

二十七日(金)午後、国立京都国際会議場で催された京都産業大学の創立五十周年記念式典に参列(約二千人出席)。柿野理事長の力強い挨拶も大城学長の「神山(こうやま)スタイル2030」宣言も良かったが、何より彬子女王殿下(和装)の爽やかな御祝辞に深く心を打たれた。

その後のレセプションでは、一緒に勤めた旧現教職員、各地から集まった卒業生など沢山の懐かしい方々と再会できた。頂いたアルバム「五十年の歩み」には、三十一年奉職した思い出が詰まっている。

二十八日(土)午後、京都産業大学の壬生(みぶ)「むすびわざ館」図書館所蔵優品展の講演会が開かれ「賀茂文化の成立と展開 ―カモの「むすびわざ」再発見―」と題して持論を話した。その後、来聴の卒業生や現役生たちと懇談できたのも嬉しかった。

二十九日(日)午前、京都考古資料館で展示中の木簡を拝見。これは九世紀後半の貴族邸趾から出土したもので、「なにはつにさくやこのはなゆふこもりいまはゝるへとさくやこのはな」の全文が平仮名で書かれている。国風文化の成立を如実に示す貴重な発見として注目される。

その午後、八坂神社の清々館で崎門祭(山崎闇斎とその学統に感謝する祭典)。続いて小川三平氏から「真木和泉守の思想と行動」、また私から「吉田松陰の「士規七則」と玉木彦介」について講述。さらに、市村真一先生(京都大学名誉教授、九十歳)を囲んだ懇談会も有意義であった。

三十日(月)午前、城南宮で鳥羽重宏宮司の御高配により「仁孝天皇御即位式図(着色)」などを詳しく見せて頂き、ついで近くの京セラ美術館にて「八坂神社名宝展」を拝観。とりわけ江戸初期に幕府(綱吉)から奉納された御祭神(スサノオノミコトとクシイナダヒメ)の玉冠・宝冠は、男帝の冕冠(べんかん)、女帝の宝冠に類する見事なものである。

その午後、大阪梅田のNHK文化センターで「『昭和天皇実録』に見る欧米御歴訪」と題して話した。大正十年(一九二一)皇太子として英・仏・伊などへの御訪問は、昭和四十七年の御訪欧、および同五十年の御訪米と共に、極めて重要な意味を持っている。

十二月一日(火)午後、大阪岸和田の「健老大学」で「『昭和天皇実録』に学ぶ高齢者の在り方」と題して話した。私前後の高齢の聴講者約二百名、すこぶる元気で心強い。

その後、山本昌治氏夫妻の案内で「だんじり会館」と岸和田城を見学したが、同城主の岡部宣勝(1597~1668)は、大垣城主から竜野・高槻を経て入封した譜代大名で名君と評されていることなど、初めて知りえた。その夜遅く六日ぶりに小田原へ帰り着いた。

(平成二十七年十二月一日 所功 記)

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