斐太高校と「光ミュージアム」
十一月十三日(金)、朝早く小田原を発って、JR岐阜で降り、従弟橋本秀雄君の車に乗せてもらい高山へ向かった。下呂を通るころからの紅葉が一際美しい。
正午ころ高山に着き、岐阜県教育懇話会飛騨支部長中村慈氏(77)の御案内で、まず県立斐太高校を訪ねた。ここは牧野英一博士(明治十一年生~昭和四十五年没)の母校(旧制斐太中学)であり、創立一三〇年近い。その校長室には、水口武彦氏(元校長)の御尽力により、同校ゆかりの様々な資料が飾られている。
牧野博士と弟良三氏(元法務大臣)の扁額や写真だけでなく、同窓生の荒垣秀雄氏(元「天声人語」筆者)が六十年程前に寄贈された「Boys, Be ambitious/ Inazo Nitobe」という毛筆の大書にも感銘受けた。
また、同窓生の建てた立派な有斐会館には、牧野博士の著書と歌集など三十数冊がある(他に百部近い著書論文は高山市立郷土館の倉庫で保管の由)。しかも、その横に並ぶ古びた本の中から明治四十一年(一九〇九)吉田庫三氏編『吉田松陰遺著』を発見した。これは今春来『松陰から妹達への遺訓』を編纂する際、探し求めて入手できなかった貴重な本(昭和十年代に完成する吉田松陰全集の原本)で、奥村教頭に頼み口絵などを複写して頂いた。
ついで、同市内の「光ミュージアム」を訪ねた。ここは産経新聞に「日本の書」解説を連載中の手島泰六氏により、平成十一年に開設された壮大な博物館で、和漢洋の書画工芸品など数千点を所蔵するという(同館編刊『光記念館 日本美術名品選』に140点収録)。この日は同理事長の父君手島右卿(明治三十四年生~昭和六十二年没、文化功労者)の主要な名作を拝見して、まさに「書は人なり」の感を深くした。
その夜は、中村氏の肝煎りで懇親会。そこへ昭和四十年代、皇學館大学において切磋琢磨した教え子が何人も来てくれ、一気に若返ることができた。特に8期(同48年3月卒)の奥洞(旧姓福島)憲仁君は、春の高山祭(山王祭)で有名な日枝神社の養嗣となり、岐阜県神社庁の副庁長まで務めていると聞き、これぞ“出藍の誉れ”と祝盃をあげた。
牧野英一博士と田中大秀大人の生家と墓地
翌十四日(土)午前、まず高山陣屋の近くにある牧野博士の生家を訪ねた。現在「おもてなし日本一」の旅館「平野屋花兆庵」が原形を保持しながら客室として活用中の全容を、女将の有巣さんに案内をして頂き、博士が生まれ育たれた往時を偲ぶことができた。
ついで東本願寺高山別院の蓮池脇にあるという牧野博士の墓地を訪ねた。しばらく数人で丹念に探しても判らないので、諦めかけていたところ、中村さんが「これだ」と見付けられた。それは小さな石碑で、側面に「玉屋」、背面に「文政元年」(一八一八)と刻まれている。
しかも、そこへ近所に住む梶井正美氏(76、元高山市助役)が来られ、高山は江戸幕府の直轄地となり、福井(現越前市)から来た郡代が治めていたこと、それに伴って牧野家の分家伊兵衛が高山へ移り住み「郷宿」を営んで幕末に至ったこと、などを詳しく話された。この墓は、その先祖が約二百年に建てられたものなのである。ただ英一博士は東京へ出られ(晩年茅ヶ崎市)、次男賢二氏(医師)は早く亡くなり、三男良三氏に子供が無いため、現在ここは無縁になっているという。
続いて、飛騨護国神社の総代も務める若い松嶋雄司氏の案内により、国学者(本居宣長の高弟)田中大秀(1777~1847)ゆかりの地を駆け足で訪ねた。その一つは大秀が考証して延喜式内社と確定し再興した荏名(えな)神社と荏名文庫(その脇の畑が住居趾)である。ここへ越前から歌人橘曙覧が来て、大秀に学んでいる。
もう一つは、小高い岡の上に建てられた大秀の奥城(おくつき=墓)である。それは一見して松坂の山室山に建てられた師宣長の墓に倣った作りだと判る。しかも、そこから荏名の住居と神社が見渡せるのは、柳田國男翁のいう人は先祖となって子孫や古里を見守る、という風習を示すものと思われる。
牧野博士の「家族尊重」法思想
その午後、今回の主目的である岐阜県教育懇話会飛騨支部主催の「現代国民講座」に臨んだ。会場の高山市民文化会館では、事務局長の浅野義英氏や地元有志が座席並べなどに汗を流し、また参加者は百名弱ながら、最後まで熱心に聴講して下さった。
当日の演題は「牧野博士の“家族尊重”法思想に学ぶ」とした。私は二十年程前から、いわゆる夫婦別姓を進める民法改正の動きに疑問をもち、現行憲法の第二十四条および改正民法の親族法・相続法について、成立の経緯を詳しく調べた。その際、戦前も戦後も一貫して家族(親族)の敬愛協力が重要なことを説いて来られた牧野博士の功績を知りえたので、それを郷里高山の方々にも再認識して頂きたいと思ったからである。
牧野博士は明治三十六年(一九〇三)東大法科(フランス法)卒業直後に刑法担当の教官となり、三十五年後の昭和十三年(六〇歳)東大名誉教授となってからも、一橋大学や中央大学で二十数年教壇に立ち、同二十五年(一九五〇)文化勲章、また同三十五年(八二歳)勲一等瑞宝章を受章し、その十年後に茅ヶ崎で永眠された。
その間に刑法学者として多大な業績をあげられた(著書数十冊)が、同時に終生の恩師穂積陳重博士(一八五六~一九二六)から強い感化を受け、民法学者としても抜群の見識を示された。とくに昭和二十一年(一九四六)三月から貴族院議員に任じられ積極的な活躍をしておられる。
その一つは、新憲法の前文に「家族生活を尊重する」という一文を加える提案をされた。それは過半数の賛成をえたが、三分の二に達せず採用に至らなかった。
すると、もう一つ、民法改正の審議会で「直系血族及び同居の親族は、互いに協力扶助すべきこと」「親族は互いに敬愛の精神に基づき協和を旨とすべく、特に共同の祖先に対する崇敬の念を以て和すべきこと」などを強く主張された。その趣旨は、改正民法の七三〇条・七五〇条・七五二条・七九〇条および八七七条・八九七条などに盛り込まれ、日本的な「家」の存続が辛うじて可能になったのである。
このような「家族尊重」の法思想は白羽祐二氏「牧野英一と民法論」(中大法学新報、一〇三巻、平成九年)によれば、「飛騨高山で生まれ育ったとき血となり肉となったものが、彼の思想形成に大きな影響を与えていた」とみられる。それを私も現地において実感することができた。
吉田松陰に即して「大切なことを学ぶ会」
この後、高山から特急を乗り継ぎ、夜遅く和歌山に着いた。翌十五日(日)午前、向井征氏の主催される「大切なことを学ぶ会」に出るためである。
当会は、「教育勅語」の内容を若い世代にも伝え広めたい、という向井氏により数年前に発足し、勉強会や見学会を続けて、はや四十一回目を迎えるに至った。
その当初から、毎年十一月に出講を求められ、今回は「吉田松陰と明治維新」をテーマにした。これはNHKのドラマ「花燃ゆ」に関連づけて、杉家に生まれ吉田家を継いだ松陰が、叔父玉木文之進らの教えを受け、両親と兄梅太郎の慈愛により活躍できたこと、また旅先からも獄中からも妹(特に千代)あてに手紙を出し嫁・母としての在り方を説き続けたこと、さらに実弟敏三郎や従弟玉木彦介らを懇切に励まし導いていること、などを紹介しながら、家族の助け合いが如何に大切かを伝えた。
あわせて明治維新は、松陰が「松下村塾記」にも示している「君臣の義」と「華夷の弁」を明らかにする尊王・攘夷の思想を基にした現状変革運動であり、その実現を可能にしたのも、松陰が力を入れた青少年と婦女子の教育向上によるところが大きいこと、その一例が松陰の妹千代の子(甥)で吉田家を継いだ吉田庫三の教育力(神奈川県立二中・四中の初代校長として活躍)にもみられること、などを具体的に話した。
その後、新しい参加者も含めて数十名で食事をしながら、各々この一年間に学んだことや今考えていることを端的に述べあった。例年のことながら、向井氏の御令息夫妻が何から何まで尽力されたことに、感心し感謝するほかない。
(平成二十七年十一月十六日 所功 記)