一遍聖絵展と柳田国男展
十一月に入って、小田原の紅葉も鮮やかに色づきつつある。その三日(火)、快晴に恵まれた「文化の日」(明治節)、家内と藤沢・横浜を訪ねた。
まず藤沢では、時宗の本山「清浄光寺」(通称遊行寺)に詣り、その宝物館で「一遍聖絵」特別展を見学。京都勧善光寺所蔵の十二巻本(国宝)には、一遍上人(一二三九~八九)が遊行した全国各地の情景がリアルに描かれ面白い。
ついで横浜に赴き、神奈川県立文学館で「生誕一四〇年 柳田国男展」を見学。展示は「遠野物語」の世界を中心に、生誕(明治八年)から永眠(昭和三十七年)まで八十七年の生涯を裏付ける貴重な資料が集成されている。その入口に掲げられた色紙には、兵庫の松岡家に生まれ、信州飯田の柳田家へ入り、東京で法制局参事官兼宮内省書記官となった三十四歳の国男が、帰省して詠んだ「幼な名を人に呼ばるゝふるさとは 昔にかへるここちこそすれ」の一首があり、殊のほか共感を覚えた。
大国主神による国譲りの偉業
七日(土)、朝早く小田原を発ち岡山経由で午後一時ころ出雲へ着き、夕方まで「古事記の再発見」と題する講義をした。これは、モラロジーを学ぶ中国地域の中堅リーダーが作る「プロジェクトみらい」の企画したセミナーで、百名近い参加者の熱意に却って教えられた。
今回は、会場の出雲に因んで、記紀の伝える「大国主命」=「大己貴神」による国譲りの物語を中心に話した。この神話には、神武天皇の東征以前から「葦原中国」を支配していた三輪氏等の勢力に対して、大和朝廷(崇神・垂仁天皇朝)が服属を求めた際、元来皇室と同系の天穂日命(天照大神の次男)を祖神とする出雲氏が、三輪氏に取り込まれて大国主命神を奉じていたけれども、結局その広大な支配権を譲って出雲で地歩を固めた、という歴史が投影されている(田中卓博士説)と解するならば、まさに「天神系と国神系の和合」を示す日本的な英知の表われとして、重要な意味をもっている。
しかも、その出雲氏が、朝廷から当地の国造(くにのみやっこ)に代々任命され、大和の宮殿より高く大きな神殿を造って「大国主神」を祀り、代替わりごとに京へ上って「皇孫命」(すめみまのみこと)歴代天皇に忠誠を誓う「神賀詞」を捧げる儀式が、千数百年後の現代まで続いている。 (添付レジュメ参照)
翌八日(日)は、午前中、セミナー参加者たちと出雲大社に正式参拝した後、本殿周辺の摂社も巡拝した。その一つ「氏社」は、氏祖神の天穂日命と初代国造宮向を祀るが、本殿より遙かに小さく奥床しい。また参道の脇では、平成十五年十月、行啓された皇后陛下の
「国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業(みわざ)を 偲びて止まず」
という御歌の刻まれた石碑を拝見することもできた。 その午後には、近くの古代出雲歴史博物館をモラロジーの有志数名と訪ねて、常設展と 特別展「百八十神座す(います)出雲」をゆっくり見学した。両方とも極めて充実した内容で、地元ボランティアの親切なガイドにも感心した。
大正京都大礼百年の歴史的意義
九日は京都の旧居(家内の実家)で雑用を片付け、ついで十日(火)の午前、京都商工会議所の大講堂で「京都シニア大学」の月例講座を務めた。テーマは「大正京都大礼百年の歴史的意義」である。
その意図は、まさに本日が大正四年(一九一五)十一月十日、京都御所の紫宸殿で大正天皇の即位礼が挙行されてから満百年の記念すべき日に当たり、百年前の大礼(大嘗祭・大餐儀も含む)を機に、京都の御苑も市街も立派に整備された事実を、地元京都の方々に再認識してほしいと思ったからである。
そこで、まず一五〇年近い前の明治元年(1868)八月に紫宸殿で即位式を挙げられた明治天皇が、翌年に東京へ遷られて以来、京都は急速に衰退し始めたこと、それを心配された天皇の叡慮に基づいて、明治二十二年制定の「皇室典範」で「即位の礼及び大嘗祭は、京都に於いて之を行ふ」と明文化されるに至ったこと、そのおかげで大正・昭和の大礼が京都で実施され、伝統工芸も観光産業も非常に発展する好機となったこと、などを強調した。 (添付レジュメ参照)
その午後、西本願寺前の井筒ビルで、市民の有志と市役所の方も一緒になって、明治・大正・昭和・平成の大礼を総合的に振り返る特別展を、三年先(二〇一八)の明治維新一五〇年記念事業として実施をできないか協議した。道のりは険しいが、みんなの力で何とか実現したい。
(平成二十七年十一月十二日 所功 記)