(47)岐阜谷汲育樹祭奉祝・皇太子殿下行啓奉迎に向けて



今年の第三十九回全国育樹祭は、十月十一日(日曜日)に岐阜県の揖斐川町谷汲で開催される。それに先立って、地元有志の集いが幸い盛大に行われたので、その前後の経緯を感想も含め略記しておこう。

岐阜県谷汲は「全国育樹祭」発祥の地
戦後の昭和天皇が全国の都道府県で順次主催する行事に臨席されたのは、春の全国育樹祭と秋の国民体育大会であった。平成に入ると、それに全国豊かな海づくり大会も加わり、三大行幸という。

このうち、国土緑化推進のために全国育樹祭の第八回大会が、昭和三十二年(一九五七)四月七日、私の郷里岐阜県揖斐郡谷汲村(現在揖斐川町谷汲)で開催された。当時、高校入学早々の私(十五歳)は、天皇陛下(五十五歳)と皇后陛下が揃って来られると聞き、自転車で行幸路に駆けつけ、人垣越しに一瞬ご尊顔を拝したことがある。

それから足かけ二十年後の昭和五十一年七月、岐阜市で開かれた全国献血推進大会に、皇太子殿下(四十二歳)と同妃殿下が行啓された。その際、地方ご視察として谷汲へお出まし下さり、両陛下お手植えの杉・桧が立派に成長した姿と、地元の名人による見事な枝打ちなどを御覧になって、いたく感心されたという。

それを間近で拝見していた当時の県知事が、天皇陛下のお手植えされた木々を皇太子殿下にお手入れして頂ければ、育樹(育林)の御手本を示されることになる、と熱心に要請した。そして同年秋十一月、まだ行啓は叶わなかったが、国土緑化推進委員会と岐阜県の共催により、谷汲で「全国育林祭」が行われている。

のみならず、これが発端となり、翌昭和五十二年(1977)九月、大分県別府市で第一回の「全国育樹祭」が開始されて、皇太子・同妃両殿下のご臨席を賜り、以後毎年、ほぼ十月に励行されている。その意味で、岐阜の谷汲は、全国育樹祭発祥の地と称してよいであろう。

揖斐郡三町民による行啓奉迎の集い
その全国育樹祭も回を重ねて、昨年十月、第三十八回大会が、山形県の金山町で実施された際、次回は岐阜県で開催予定と公表された。しかも、それが昭和天皇も今上陛下もお出ましの谷汲で行われると聞き及んだ地元民の喜びは、測り知れない。

そこで、郷里の揖斐を離れて四年目になる私も、この育樹祭と行啓のもつ意味を地元の人々に十分ご理解頂くため、少しでも役立つことができないかと思い立ち、地元の関係者に相談した。すると、育樹祭自体は岐阜県が主管し、それを開催地の揖斐川町(平成7年に谷汲村も含む一町五村合併)で受け入れ準備をするが、それ以外の事は民間で自由にやってよいとの諒解をえた。

それ以来半年余り、岐阜県教育懇話会の事務局長橋本秀雄氏が実質的な責任者となり、まさに東奔西走したところ、いろいろ難しいこともあったが、結果的に揖斐川町だけでなく、隣の大野町と池田町も一緒になって(揖斐郡の全域)「いび三町民の集い」を育樹祭一ヶ月前に開くことができるようになったのは、まことにありがたい。

その要因は、第一に信望のある日本会議岐阜県本部常任相談役澤田栄作氏といび川農業協同組合長堀尾茂之氏の仲介により、揖斐郡森林組合長冨田和弘氏(揖斐川町副町長)に相談すると、実行委員会の代表には区長会長がよいとの助言を得て、開催地揖斐川町の区長会長山口敬次氏にお願いをしたところ快く引き受けてくださったのである。また、大野町区長会長杉原重明氏と池田町区長会長高崎正之氏も山口代表に全面協力することを確約され、三町の協力準備態勢が一気にできあがっていった。

その第二は、岐阜市モラロジー石動春雄氏の仲介により、岐阜県モラロジー協議会の会長中村修一氏が、いびモラロジー事務所松久孝春氏と相談してくださり、会場の設置・受付・接待などを、三町のモラロジー関係者だけでなく、大垣市モラロジー事務所の方々にも協力して頂けるようになったことである。

丸山幸太郎教授による講演「揖斐郡の森づくりと天皇行幸」
こうして「第39回全国育樹祭奉祝・皇太子同妃両殿下行啓奉迎いび三町民の集い」は、九月十二日午後、大野町の総合町民センターで開催された。同町の宇佐美晃三氏は、今春、大垣で行われた岐阜県霊山顕彰会の講演会にも、小田原で開かれた郷土先人顕彰フォーラムにも出られ、自ら学ぼうとしておられる。

当日は好天に恵まれ、会場一杯の二百名余りの参加者があった。橋本氏の司会により、山口代表の挨拶に続いて、二人の県会議員、池田町と大野町の町長、揖斐川町と大野町の議会議長および揖斐川町教育長から、いずれも簡にして要を得た来賓挨拶があった。

講演は二つで各一時間。まず丸山幸太郎岐阜女子大学教授が「揖斐郡の森づくりと天皇行幸」について、パワーポイントも使いながら大変有意義なお話をされた。同氏は岐阜県史に精しい郷土史の第一人者で、NPO法人「揖斐郡の自然と文化財を護る会」の顧問なども務めておられる。

その中で、まず現揖斐川町の小島には、今から六百五十年余り前の文和二年(一三五三)、北朝の後光厳天皇が京都を追われて行幸し、三ヶ月近く滞在された。その頓宮(仮の皇居)所在地は、諸説あるが、遅れて来た関白二条良基の記した随筆『小島のすさみ』により、山あいの瑞巌寺(現存)あたりと推定してよいこと。

また昭和三十二年の「全国植樹祭」には、岐阜県の養老町や美濃加茂市も候補にあがったが、当地の谷汲が選ばれて両陛下の行幸啓を仰ぎ、苗木のお手植えと杉・桧の種蒔きがあり、当日「ひとびとと苗木を植ゑて思ふかな 木を育つるそのいたつきを」との御製を賜ったことを紹介された。

ついで揖斐郡の森づくりは、明治の中頃から行われてきたこと、それには静岡(浜松)出身の「植林王」金原明善の功績が大きいこと、彼は明治二十四年(一八九一)の濃尾大震災で荒廃した山林の復興に取り組み始めた湯本県知事の要請に応じ、明治三十年から当地へ何度も来て踏査の上、長期的な植林奨励策を実施している。

その際、実情を克明に写真撮影し、それを明治天皇に献上して御理解と御激励を賜り、成功を加速させたことを紹介された。

皇太子殿下の卓越した御見識と御活動
その後、私が「全国育樹祭と皇太子殿下行啓の意義」について、個人的な感想も交えながら御話をさせて頂いた。ここで皆さんにお伝えしたかったことは、皇太子殿下が父君のもとで公務に日々精励され、とりわけ自然環境の諸問題に強い情熱をもって積極的に取り組んでおられることである。

それは宮内庁のホームページを見ても判ることであるが、殿下は皇太子として通常の御公務以外に、国連の「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁として、国内でも海外でも大きな役割を果たされている。しかも、殿下は学習院大学の文学部大学院で日本中世の瀬戸内海水運史を研究され、英国オックスフォード大学へ留学してテムズ河の交通経済史も研究された歴史学の専門家であるから、国内外の史資料を精査した成果に基づく卓越した御講演も御発言も多いことに、歴史研究のはしくれとして全く敬服するほかない。

その皇太子殿下が、昨年十月十二日、山形県金山町(遊学の森)で開催の育樹祭において「多くの先人の努力によって守り育てられてきた豊かで美しい森林は、国土の保全や水源の涵養、木材の生産など、人々の生活にとって、かけがえのない役割を果たしています。・・・こうした森林の大切さを思うとき、それまで緑を守り育んできた技術や文化を、次の世代に引き継いでいくことは、極めて大切なことであります。」と述べておられ、育樹祭の本義はこの御言葉に尽きていると思われる。

しかも、その後、金山小学校へお立ち寄りの際に、生徒たちの紙芝居などを御覧になった。それを詠み込まれた御歌「山あひの紅葉深まる学び舎に 本読み聞かす声はさやけし」が、今年一月の宮中歌会始(御題「木」)で披講されている。地元関係者が大感激したことは申すまでもない。

同級会・氏神社の祭・広木忠信に学ぶ集い
この集い終了後、そこにも来ていた数名を含む十八名と、谷汲山華厳寺近くの水月亭でクラス会に出た。小島小中学校で九年間を共にした約九十名の同級生中、すでに十五名他界しているが、阿波公一君ら数名の世話役の尽力で毎年このような集まりをもてることは、本当に嬉しい。その晩、久しぶりに旧居へ泊まったところ、同級生の二人が夜中に差し入れまで持ってきてくれたことも嬉しかった。

翌十三日(日)午前中は、野中神社の秋祭に参列して、近所の特に親しい三軒だけでなく、区長さん以下数十名の懐かしい人々と会うことができた。この旧野中村は、江戸初期まで揖斐川寄りにあったが、慶安三年(一六五〇)の大洪水で氏神社まで流され、現在地へ移転せざるをえなくなったことなどを、四年前に旧居を出る際『野中の来歴と社寺の行事』と題する小冊子に纏めて、全区民に差し上げたことがある。

その午後、平成二年(一九九〇)から細々と続けてきた「広木忠信に学ぶ集い」を開いた。広木忠信は、元禄の初めころ揖斐城下に生まれ、京都へ出て若林強斎の「望楠軒」(私塾)で学んでいたが、母に孝養を尽くすため帰郷して、享保十三年(一七三〇)に亡くなった。地元でも殆ど知られていないが、師の強斎の祭文などを見ると、抜群の人物であったことがわかる。

そこで毎年、まず神式の墓がある長源寺境内に集まって墓前祭を営み、近くの揖斐川町立歴史民俗資料館へ移り、講演と懇談を続けてきた。今年も同様ながら、前日「三町民の集い」で案内したせいか六十名余の方々が来て下さり、レジュメなど足りなくなって嬉しい悲鳴をあげた。

今回は、墓前祭で後藤章嘉氏による解説の後に全員で祭文を斉唱した。ついで講演の方は、まず育樹祭にちなんで竹中昭文氏から「揖斐郡の災害と金原明善」について、前日の丸山教授講演以上に具体的なエピソードも交えた紹介があり、ついで杉原重明氏から「高杉晋作と所郁太郎」について、同氏の地元大野へ養子に入った所郁太郎が、長州へ行き晋作のもとで活躍した説明があり、さらに私から「吉田松陰と美濃の人々」について、同じ山鹿流兵学者として親交のあった垂井出身の長原武と松陰との交流などに論及した。

この集いは、当初から揖斐川町歴史民俗資料館(現館長高橋宏之氏)を会場とし、また十年程前から揖斐川町文化財保護協会(現会長高橋良樹氏)に主催して頂き、さらに昨年から揖斐川町教育委員会の後援をえて町報「いびがわ」でも広報されることになった。この集いも、郷土の皆さんと共に歴史・先賢について学ぶ一つの機会として、末永く続くことを念じてやまない。

(HpかんせいPLAZA 平成二十七年九月十四日 所功 記)

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