例年にない猛暑の続く最中、吉田松陰先生ゆかりの地を訪ねることができた。その前後の雑事と共に、あらましを略記しておこう。
熊本の菊池神社に家内と参拝
私は昭和四十四年(一九六九)四月四日、大垣市の濃飛護国神社で結婚式を挙げたが、皇学館大学の専任講師として初授業の準備をするため、いわゆる新婚旅行をしていない。しかも、それ以来四十六年間、いろいろな事情により揃って一泊以上の旅行をすることが殆どできなかった。
そこで今夏、熊本県モラロジー協議会の行事に招かれた機会に、家内を連れて出かけた。それは女房(旧姓菊池)の遠祖が祀られる熊本県菊池市の菊池神社へ一緒に参拝したい、という念願を果たすためである。
まず、八月七日朝七時、新幹線の小田原駅を乗り、JR熊本から肥後大津まで行き、バスで一時間近く揺られ、炎天下の坂道を歩いて登り、菊池城址の神社に辿り着いたのが午後三時半。約八時間半ほど要したことになる。
この菊池神社は、元弘三年(一三三三)建武中興のために決起して壮烈な戦死をとげ、明治天皇から「誠忠臣分の模範」と称えられた武時を主祭神として、明治三年(一八七〇)に創建され、同十一年「別格官幣社」に別格した名社である(のち大正十二年には武重・武光も主神として合祀)。
境内には、真夏のせいか参拝者が他に誰もいなかったので、ゆったり参拝して、隣接の宝物館も存分に見学することができた。私は平泉澄博士の『菊池勤王史』(初版昭和十六年)を高校の恩師に勧められて拝読以来の感慨にひたったが、女房も祖父の和三郎(武輝)から伝え聞いた由緒を想い起こしながら感無量の面持ちであった。
「清正公様」の浄池廟と加藤神社
翌八日(土)は、午前中、熊本市国際交流会館で開かれた「三方教育シンポジウム」に出た。この会合では、熊本県副知事をはじめ県と市の教育長などが参列し、来賓挨拶だけでなく、道徳教育推進モデル校の実践発表も私の講演も熱心に聴いておられた。その後、熊本市内の小中学生が「家族の絆」というテーマで書いたエッセイの入選作品朗読と授賞式が行われ、素晴らしい内容に感心した。
私は「吉田松陰とその家族に学ぶ」と題して、松陰先生が旅先や獄中から家族(両親・兄弟・姉妹)親族(伯父・従兄弟など)あてに出された手紙などを手懸りに、その深く強い絆(信頼互助関係)があればこそ、全国各地に遊学したり、幽因の身でも松下村塾などの教育に当たりえたことなどを講述した。
その資料の一つにあげたのは、嘉永三年(一八五〇)初めて九州を歴訪した松陰(24歳)が、熊本で加藤清正を祀る廟に詣って奉った願文である。これは声が出せず耳も聴こえない不憫な弟の敏三郎(6歳)のために、真心こめて祈ったもので、一読して感涙を禁じえない。
同日午後、今回のシンポジウム実行委員長岩田英志氏が、自ら車で本妙寺と加藤神社に案内して下さった。熊本城北西(中尾山上)の本妙寺(日蓮宗)には、元来(一六一一年)遺言により清正を埋葬した「浄池廟」があり(そこへ間もなく本妙寺が移転してきた)、今から一一五年前、ここに松陰先生も参詣されたのである。
また加藤神社は、明治初年の神仏分離令により、同四年(一八七一)浄池廟の神霊を熊本城内に遷して祀り(のち城外)同四十二年から現社名に改称されている。
この地元熊本では清正に親しみをこめて「清正公様(せいしょこさん)清正公様(せいしょこさん)」と呼ぶ人が多いという。同社には、清正に殉死した近臣の大木兼能と金官(朝鮮より来日)も合祀されているが、これも清正の人徳によるものといえようか。
萩博物館と松陰神社「至誠館」
その八日夕方、新幹線の新山口まで戻ると、小林正史氏(京都産業大学卒業生小林和子さんの主人)が迎えに来て下さり、車で萩に向かった。途中、椿八幡宮へ立ち寄り、その脇にある幕末の同宮九代祠官青山清と一族の集合墓にも詣ることができた。
この青山清(一八一五~九一)は、文久三年(一八六二)十月、京都の粟田山において久坂玄瑞らと共に、初めて吉田松陰の神道式慰霊(招魂)祭を斎行している。また高杉晋作や山県・伊藤らと交流があり、慶応元年(一八六五)八月、下関に桜山招魂社を創建し、さらに同三年十一月、品川弥二郎らが密かに作った「錦の御旗」にも関与している。
それのみならず、まもなく東京に出て、東京招魂社に勤め、明治十二年(一八七九)「靖国神社」と改称され別格官幣社となった同社の初代宮司を務めたことが、その末裔に連なる青山隆生氏(皇学館大学四期生、元日光東照宮権宮司)の著者に詳述されている。
翌九日(日)は、朝早く松陰神社に参拝し上田俊成宮司に御挨拶してから、萩博物館を訪ね、特別展「杉家の家族愛 ―兄松陰と妹文― 」を午前中、じっくり拝見した。
同館には杉家から多数の貴重資料が寄贈されており、松陰の書簡だけでも六十通近い。その全文を調査し撮影・解説した図録『吉田松陰の手紙』を編纂された主任学芸員道迫真吾氏の懇切な解説を聴きながら、各々のもつ意味を学ぶことができた。
その午後には、松陰神社境内の至誠館で特別展「吉田松陰が生まれた杉家とその家族 ―妹たちとの絆― 」を拝見させていただいた。ここには杉家の寄贈品だけでなく、松陰の長妹千代が嫁いだ児玉家から寄託された貴重資料なども数多く所蔵されている。
そのうち、千代が兄の松陰から送られた手紙を丁寧に貼り付けて繰り返し読んだという冊子状の書簡集や、松陰(30歳)が安政六年(一八五九)五月十四日、江戸送り直前に野山獄中から三妹(千代・寿・文)に宛てた手紙(初公開)などは、まさに「妹たちとの絆」を示すもので、松陰の真心に深い感銘を覚えた。
夕方、再び小林夫妻に新山口まで送ってもらい、夜遅く国府津の自宅に帰り着いた。かなりハード・スケジュールであったが、遅すぎる旧婚旅行ともなった。
乃木神社の摂社「正松神社」
さらに翌十日(月)、快い疲れの残る朝から、東京に向かった。乃木会館で開かれる皇学館大学国史学科十期生のクラス会に出るためである。彼らは昭和四十六年(一九七一)春に入学し、私(29歳)が百名近い国史クラスの担任となり、四年間苦楽を共にして、同五十年春、彼らが卒業する時に私(32歳)も退職して文部省の教科書調査官に転任したから、お互い同期生のような間柄である。
彼らは男女とも在学中ほとんど寮生であったから、卒業後も頗る仲が良い。特に熱心な世話役(武田直樹君など)のおかげで、ほぼ三年ごとにクラス会を開き、その都度私も招いてくれる。特に今回は卒業四十年という節目で全国各地から二十名参集した(既に五名他界)が、私(73歳)も十歳程若い彼らも、四十年前にタイムスリップして、大学祭・研修旅行やゼミ・卒業論文などの想い出話に花を咲かせた。
この宴会に先立って、乃木神社の本殿に正式参拝したが、その東脇にある摂社の「正松神社」にも詣った。その祭神は、玉木正韞(文之進)と吉田松陰(寅二郎)の二柱で、昭和三十八年(一九六三)萩の松陰神社から分祀されたという。
その由緒は、松陰の叔父(父の弟)で玉木家を継いだ文之進が、松陰を学問的に厳しく鍛えたこと、松陰が文之進の息男毅甫(彦介)に「七規七則」などを書き与えたこと、けれども、彦介が元治二年(一八六五)俗論党に敗れて自決した(25歳)ので、乃木希典の実弟正誼が玉木家を継いだこと、その正誼が松陰の姪(兄梅太郎の子)豊子と結婚し、その間に生まれた正之氏の子息が長らく中央乃木会の会長を務めてこられたこと、何より乃木大将自身が玉木文之進と吉田松陰の思想的な影響を強く受けていることなどから、この二柱が学問の神として祀られたのである。
そんな関係から、乃木神社の宝物館には、乃木家だけでなく、玉木家より寄贈された貴重な資料も展示されている。そのうち、特に感銘を受けたのは、玉木彦介の「日記」に従兄(十一歳年上)の松陰先生が丁寧に所見を朱書しておられること、および乃木大将が松下村塾の木版刷「七規七則」を表装して明治三十六年(一九〇二)長男の勝典(24歳)に贈る際、これを「熱読・熱思・熱行」するよう奥書を加えておられることである。
しかも、クラス会の前後に当館を案内して下さったのは、名誉宮司高山亨氏と孝子さん(旧姓大西、私の卒業論文指導生)の御長男と、中央乃木会の飯島事務局長である。松陰神社・至誠館と同様、共に祭神への崇敬と展示品への理解が深い。
ちなみに、松陰の甥(児玉千代の次男)で吉田家第十一代を継いだ吉田庫三氏(一八六七~一九二二)は、松陰五十年祭の明治四十二年(一九〇九)、『松陰先生女訓』(民友社刊)を編纂している。
私は今春来それに詳細な解説と補論を加えた『松陰から妹達への遺訓』(勉誠出版)の作成に取り組んできた(八月下旬刊行予定)。その検討過程および今夏の現地歴訪・実物拝見を通して、松陰先生から更に多くの教えを頂くことができた、と実感している。
(平成二十七年八月十五日 所功 記)