「地理」を重んじた吉田松陰
吉田松陰という人は、本来的な意味での〝 実学者 〟だったと思われる。決して机上の観念的空想論者ではなく、実地に赴き現物を確かめ、その実感に基づく現実的な計画を立て、その実現に向けて具体的な努力を続けるリアリストだったといえよう。
松陰は天保三年(一八三〇)下級武士の杉家に生まれたが、数え五歳で叔父(父の弟)吉田大助の養子となり、翌年大助病死により吉田家を継いでいる。吉田家は山鹿素行以来の兵学で長州の萩藩に仕えてきた。従って、哲学的な儒学だけでなく、実学的な兵学の習得に努め、しかも幕末当時の激動に直面すれば、実際的に行動せざるをえなくなったのであろう。
その最たるものが、嘉永七年=安政元年(一八五四)三月二十七日夜半、松陰(25)みずから下田で停泊中の米艦に乗り込み渡航を求めた事件にほかならない。これに共鳴して同伴したのが、長州から江戸に出て、毛利藩邸の雑役をしながら修学に努めていた金子重輔(24)である。
この青年が、松陰と共に萩へ送られ、野山獄の隣の岩倉獄で、翌安政二年の正月十一日に病死すると、松陰は翌月「金子重輔行状」を書いて弔った。その中に江戸で重輔から「学を為す方」を問われた松陰が、「地を離れて人無く、人を離れて事無し。故に人事(人の為す事)を論ぜんと欲せば、先づ地理を観よ」と答えている。
九州に遊学し宮部鼎蔵と出会う
こうした考えを早くから持っていた松陰は、嘉永三年(一八五〇)二十一歳の八月から、初めて藩外の九州遊学に旅立った。一つの目的は、平戸で山鹿流兵学の宗家山鹿万吉に入門し、同門の葉山佐内などを訪ねることであったが、平戸でも長崎でもアヘン戦争関係の書物を借覧して抄録し、出島で蘭館を訪ねてオランダ船に乗り、海外認識を新たにしている。
その後、天草・雲仙・島原を経て熊本に到り、十歳年上の宮部鼎蔵と会って意気投合し、また加藤清正の廟に詣って、聾唖の末弟敏三郎(6)のために願文を奉った。ついで柳川・佐賀・久留米を経て、年末に萩へ戻っている。
この九州遊学中に熊本藩士、とくに宮部鼎蔵(31)と出会えたことは、松陰(21)にとって「実に有益」であった(『西遊日記』)。鼎蔵は医家に生まれたが、伯父に就いて山鹿流兵学を修めながら、肥後実学党のリーダー横井小楠(51)らと交わっていたから、松陰と直ちに志が通じたのであろう。
しかも、翌年(嘉永四年)四月、松陰(22)が藩主の参勤に従って江戸へ出ると、折よく鼎蔵(32)も江戸に来ていた。そこで一緒に山鹿流兵学江戸宗家の山鹿素水に入門して切磋琢磨に努め、松陰は鼎蔵を「毅然たる武士なり。僕常に以て及ばずと為す。毎々往来して資益あるを覚ゆ」と高く評価している。
さらに同年(一八五一)六月、二人は鎌倉の瑞泉寺で松蔭の伯父(母の兄)竹院和尚を訪れた後、浦賀の台場などを見て廻った。その上で、七月二十日、西洋砲術家の佐久間象山(41)に入門している。
二人で東北を歴訪し再び九州へ
その間に、二人とも北辺防備のため東北踏査を必要と考え、同じ嘉永四年(一八五一)十二月、江戸を発った。それから翌五年四月に江戸へ戻るまでの『東北遊日記』序文に、次のごとく記されている。
余客歳(去年)鎮西に遊び、今春東武に抵(いた)抵(いた)る。ほぼ畿内・山陽・西海・東海を跋渉せり。而して東北・北陸は土広く山峻しく……かつ西のかた満州に連り、北は鄂羅(オロシア)鄂羅(オロシア)に隣す。これ最も経国の大計の関る所なり。……このごろ肥人宮部鼎蔵、東北遊を余に謀る。余喜びてこれを諾す。……
その際、約束の十四日(赤穂義士討入の日)が迫っても、毛利藩から通行の許可証が届かないため、敢て脱藩して出発。水戸で会沢正志斎に会って「皇国の皇国たる所以(ゆえん)所以(ゆえん)」に目覚め、翌五年(一八五二)正月から雪をかきわけて会津・新潟・佐渡から秋田・津軽・青森・仙台・日光などを廻り、二人とも元気に江戸へ戻るが、松蔭は脱藩の罪で萩へ送られた。
しかし、藩主毛利敬親の温情によって、松陰は翌六年(一八五三)諸国遊学を許され、再び江戸へ出た。そして六月、浦賀に来航した米艦(黒船)を見に行く。ついで九月、長崎に来泊中のロシア軍艦を追って九州へ向かい、京都で梁川星巌を訪ねて御所を拝してから、船で瀬戸内海を進み、熊本で宮部鼎蔵や横井小楠など十数名の肥後藩士と論談した後、十月二十七日長崎へ着くが、露艦は五日前に出航していた。
そこで、また熊本へ戻って宮部ら「熊本の諸友」に再会し、一旦萩へ戻った。しかも、ほどなく訪ねてきた宮部らと江戸へ向かい、途中で伊勢の神宮に詣り、大垣なども訪れ東下している。
米艦乗り込み前後の松陰と鼎蔵
こうして三たび江戸へ出た松陰は、嘉永七年=安政元年(一八五四)正月、ペリーが神奈川沖に再来したことを知り、密かに金子重輔と米艦への乗り込みを企てた。
そして三月五日、その計画を江戸にいた同志に打ち明けたところ、賛否両論に分かれた。同席した八名のうち、長州・萩藩士は三名、他に宮部鼎蔵(36)・佐佐淳二郎(27)・永島三平(22)・白井小助(20)・松田重助は全て肥後藩士である。
しかも、鼎蔵は初め「これ危計なり」と反対したが、松陰から決死の覚悟を示されて賛同し、身に帯びた愛刀と神鏡を贈り「皇神(すめがみ)皇神(すめがみ)の真(まこと)真(まこと)の道を畏(かしこ)畏(かしこ)みて思ひつゝ行け」と激励している。
その後、松陰・重輔が決起に失敗して投獄されると、鼎蔵は自責の念にかられて熊本へ退いた。しかし、まもなく京へ上り、長州藩に加わって奮闘したが、元治元年(一八六四)六月、池田屋で吉田稔麿(24)らと密議中、新撰組に急襲され自刃している(45)。
なお、親子ほど違う鼎蔵の弟春蔵も、長州に赴いて国事に奔走した。そして元治元年七月、禁門の変に加わり奮戦したが、敗れて真木和泉守(52)らと共に天王山で自刃している(26)。
このように見来れば、吉田松陰と宮部鼎蔵を通じて、幕末に於ける長州と肥後の志士人脈は、きわめて密接に結ばれていた。それにも拘わらず、まもなく薩長土の三藩を中心に維新政府が発足し、翌明治二年(一八六九)、肥前(佐賀)も加わって「版籍奉還」(同四年「廃藩置県」の先駆け)を断行したが、肥後(熊本)は藩内事情に足を取られ、少し出遅れている。
けれども、松陰の影響を受けた五人の志士(いわゆる長州ファイブの井上馨・伊藤博文・遠藤謹助・野村弥吉・山尾庸三)が文久三年(一八六三)からイギリスに密航し(前二者は一年弱、後三者は四年間)、帰国後大活躍している。また鼎蔵と親交のあった横井小楠の兄や甥がアメリカに密航して、帰国後「熊本洋学校」の開設に努力し多彩な人材を輩出している(その一人徳富蘇峰が『吉田松陰』を著す)。
これらを可能にした遠因も、松蔭の雄大な志と果敢な言動にある、と言えるのではないだろうか。
(平成二十七年八月八日 熊本モラロジー「三方教育シンポジウム」参考資料 所功 記)