『新潮45』の平山周吉論文の要点
前回「日本学広場」(38)で「東宮御教育常時参与の小泉信三博士に学ぶ」を書いたのは、『新潮45』七月号の掲載論文に触発されたからにほかならない。
それは、平山周吉(ペンネームか)という慶応大学出身の文筆家による「天皇皇后両陛下の“政治的ご発言”を憂う ―小泉信三の“帝王学”と戦後七十年― 」と題した十八頁の力作である。
平山氏は、今上陛下が小泉参与から福沢諭吉の『帝王論』により皇室の「不偏不党」を学びながら、この正月、新年の「ご感想」で「終戦から七十年という節目の……機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだ」と述べられたことに疑問を呈し、田原総一郎氏の「(天皇が)政治社外に立つことを止め、一歩踏み込んだ発言をした」との見解に共感している。
また「天皇陛下の了解のもとに発せられている」とみられる皇后陛下の文書回答でも、一昨年十月、明治十三年に民間で作られた「五日市憲法草案」に「深い感銘を覚えた」といわれたり、昨年十月、終戦後ラジオで「A級戦犯に対する判決の言い渡しを聞いた時の強い恐怖を忘れることができません」といわれたのは、「小泉信三の教えに抵触するのではないか」と憂慮している。
この論文は、よく調べて穏やかに書かれているから、かなり説得力がある。しかしながら、両陛下の「おことば」は、我々と異なる高い次元から大局を広く見通され、関係者と検討を重ねて公表されるものと考えられる。従って、その御真意を理解するには、さまざまな観点から慎重に推し測る必要があろう。
「満州事変に始まる戦争の歴史」の教訓
まず満州事変云々については、平山氏も青山繁晴氏の指摘を引くとおり、すでに平成十七年と二十一年にも言及されている。しかも今回は、昨年八月に奉呈された宮内庁編『昭和天皇実録』全六十巻を通読された上での御所感とみられる。
その『実録』昭和六年九月十九日条に「午前九時三十分、侍従武官長奈良武次より昨十八日夜、満州奉天付近において発生した日支両軍衝突事件について奏上を受けられる」が、「奈良は、この日の朝、自宅にて新聞号外によって事件を知り、奏上」に及んだとある。
つまり、この深刻な衝突事件は、発生当夜に東京へ打電されていたが、参謀本部からも政府からも上奏されず、天皇は翌朝「新聞号外」で初めて聞知されたという。
しかも、天皇の御意向を承って、若槻内閣は事態の不拡大方針を決めながら、現地では張学良軍に対し劣勢の関東軍を援護するため、参謀本部の指令を待たずに朝鮮軍一師団を満州へ越境出動させてしまい、二日後それを閣議で承認して特別軍事費の支出決定を上奏するに及び、「天皇は、この度はやむを得ざるも、今後気をつけるようにと戒められ……これを御裁可」(同二十二日条)になっている。
すなわち、このあたりから政府も参謀本部も天皇陛下の御内意を的確に受けとめず、現地の即決行動を追認して天皇に裁可を求める、という齟齬が生じ、それが次第に拡大していく。その中には、当局者の政治的・軍事的な状況判断として止むをえない事情があったにせよ、これでは帝国の命運を担われる元首であり大元帥である天皇(すめらみこと)の大御心を軽視するものといわざるをえない。
少年皇太子「新日本の建設」への決意
もちろん、これ以後「支那事変」から「大東亜戦争」へと進み、昭和二十年の敗戦に至ったのは、苛酷な国際情勢下で不可避な道のりであったと思われる。その間に、昭和天皇がどれほど悩み苦しまれながら現実にどう対処されたかも、『実録』に詳しく記されている。
その現実を肌身で感じながら育たれた今上陛下は、「終戦の玉音放送」を奥日光の疎開先で拝聴した直後、東宮大夫の穂積重遠博士(東大名誉教授)から事情説明を受け、直ちに「新日本の建設」と題する作文を書いておられる(木下道雄『側近日誌』文藝春秋社刊に引用)。
この中で、まず「今度の戦で・・・国民が忠義を尽くして一生懸命に戦ったことは感心なことでした」が、結果的に負けた原因は、「日本の国力が劣って居たためと、科学の力が及ばなかったため」であり、また「日本人が大正から昭和の初めにかけて、国の為よりも私事を思って自分勝手をしたため」と分析され、今後日本が「どん底からはい上が」るには、「日本人が国体護持の精神を堅く守って一致して働かなければ」ならないが、「それも皆私の双肩にかゝってゐる」から、「どんな苦しさにもたへしのんで行けるだけのねばり強さを養ひ、・・・明治天皇のやうに皆から仰がれるやうになって、日本を導いて行かなければならない」と決意を示しておられる。
これが学習院初等科六年生の少年皇太子(満十一歳)に備わっていた抜群の御見識であり、ここに今上陛下の原点があると拝察される。しかも、以後四十余年「昭和天皇から学んだこと」は、「人のことを常に考えることと、ひとに言われたらするのでなく、自分で責任を持って事に当たるということ」だ(昨年十二月の「おことば」)と自ら語っておられる。決して単なる受け身の象徴ではない。
「愛と犠牲の不可分性」の深い認識
一方、皇后陛下は、天皇陛下より一歳下の昭和九年十月生まれで、大戦末期(十歳)に軽井沢へ疎開されていた。そこへ父上(正田英三郎氏)から届けられた「子供のために書かれた神話伝説の本」を「大変面白く読」まれた思い出が、後年(平成十年)国際児童図書評議会の大会基調講演用録画の中で、次のように語られている(NHK出版『道』所収)。
「これは今考えると、本当によい贈り物であったと思います。なぜなら、それから間もなく戦争が終わり、米軍の占領下に置かれた日本では、教育の方針が大幅に変わり、その後は歴史教育の中から、神話や伝説は全く削除されてしまったからです。・・・父がくれた神話伝説の本は、私に個々の家族以外にも民族共通の祖先があることを教えたという意味で、私に一つの根っこのようなものを与えて
くれました。」
その上で「忘れられない話」として、倭建命のために相模湾で入水された弟橘姫の言動をあげ、そこには「任務を分かち合うような、どこか意志的なものが感じられ・・・愛と犠牲という二つのものが、私の中で最も近いものとして、むしろ一つのものとして感じられ・・・現代にも通じる象徴性があるように感じられ」たと語っておられる。
これは、戦後の神話否定の歴史教育、犠牲非難の人権教育を絶賛信奉してきた人々と正反対の、見事な見識を日本の皇后として堂々と世界に示されたメッセージである。
また、いわゆるA級戦犯への言及は「国と国民という、個人を越えた所のものに責任を負う立場があるということ」を鋭く認識され、それゆえに皇太子妃・皇后の立場で「戦中戦後の記憶に・・・思いを巡らす」よう努めてこられたことに重要な意味がある。
さらに、いわゆる「五日市憲法草案」も、まず第一篇に「国帝」(四一条)を掲げる立憲君主制のもとで民権尊重の条文を設けた先見性に注目されたのであろうから、これを「政治的なご発言」とみるのは当たらないと思われる。
(六月三十日)