小泉信三博士が満七十八歳で他界されてから半世紀近くになる。私は生前お目にかかる機会をえなかったが、忘れ難い思い出がある。
昭和三十年の靖國神社参拝
それは昭和三十年(一九五五)夏休みに遡る。当時中学二年生(十三歳)の私どもは、岐阜県遺族会の役員に引率されて靖國神社へ参拝した。往復とも夜行列車ながら、初めての東京に驚き、靖國神社で昇殿参拝した印象は、六十年後の今日も鮮やかに甦る。
ただ、そのころ私は、母が精一杯明るく育てあげてくれ、先生にも友達にも恵まれていたから、父がいないことを何とも思っていなかった。とはいえ、上京直前に母が見せてくれた父の遺品、とりわけ昭和十七年十二月、広島から南方へ発つ時に出した長い手紙と、翌十八年春ころ、ソロモン群島ニュージョージア島へ着いて出したとみられる絵葉書、および同年七月二十七日の命日から四ヶ月後に村役場から届けられたザラ紙の戦死公報には、かなりショックを受けた。
それを読んで、父(三十歳)は母(二十六歳)と私(一歳)がいるのに、どうして召集されなければならなかったのか、しかも日本国内でなく赤道を越えた南太平洋まで行って、なぜ戦死しなければならなかったのか等々、いろんな疑問が湧いてきたからである。
小泉博士から『遺児の皆さんへ』
ところが、靖國神社の参集殿で年配の神主さんより昇殿参拝の意味と心構えを承ってから、ヒンヤリした本殿に整列して拝礼の最中、何か心に響くものを感じた。しかも、帰る際、遺児全員に『遺児の皆さんへ』という薄い小冊子を頂き、それを車中で読みながら、なぜか晴れやかな気持になったことが、忘れられない。
その冊子は、「いま皇太子殿下の御教育係を務めておられる小泉信三先生が、この春、皆さんのような遺児のために書いて下さったものです」と言って渡された。初めて聞いた名前であるが、冒頭に「私も遺族」で「倅は慶応大学を出て・・・志願して海軍士官となり、昭和十七年の十月、南太平洋方面の海上戦闘で戦死しました。年は二十五でした」と記されており、急に親しみを覚えた。
その全文は、『小泉信三全集』(文藝春秋社)第十巻『国を思う心』に収められているから、今の若い人々もぜひ一読してほしい。小見出しは①「日本人の日本」②「同胞・祖先・子孫に対する義務」③「自ら国を護るということ」④「最も重く苦しい任務」⑤「死者を思え」から成る。
すなわち、我々は日本の国土に住む「日本国民」だから「国民として現在(同胞)と過去(祖先)と未来(子孫)に対する義務」をもち、とりわけ「自ら国を護る、護国の義務というものは、特に重い」から、「日本を愛する者は、その日本のために死んだ人々のことを忘れてはなりません」と分かり易く説かれている。
皇太子御教育係の小泉博士
このように田舎の一中学生をも感動せしめた小泉信三博士は、今上陛下の誕生された昭和八年(四十五歳)から同二十二年まで慶應義塾の塾長を務めた。戦時中、一人息子の信吉少尉が戦死され、ご自身東京大空襲で顔面に大火傷を負ったが、節を曲げていない。
そこで、宮内省(のち庁)は、昭和二十一年春、学習院中等科へ進まれた皇太子明仁親王の御教育係として、小泉博士に「東宮職参与」を懇請し、まもなく「東宮御教育常時参与」に就任して頂いた。それが長逝される同四十一年春まで続いている。
その間に行われた御教育の一端を伝えるのが、数年前初めて公表された昭和二十五年四月の「御進講覚書」である(慶應義塾編『アルバム小泉信三』所収)。
この中で博士は、敗戦後も「民心が皇室から離れず」むしろ「相近づき相親しむに至った」のは、「陛下(昭和天皇)の御君徳によるもの」だから、高等科二年の皇太子殿下(十六歳)は「将来の君主としての責任を御反省になること」が「いささかも怠るべからざる義務である」「殿下の御勉強と修養とは日本の明日の国運を左右するものと御承知ありたし」と進言している。
『ジョオジ五世伝』の音読と訳解
ついで学習院大学へ進まれた皇太子殿下は、昭和二十八年(十九歳)、英国女王エリザベス二世の戴冠式に父帝の御名代として参列され、その前後に欧米を歴訪し見聞を広められた。
そして帰国後から御成婚の同三十四年春まで、H・ニコルソンの大著『ジョオジ五世伝ーその生涯と統治ー』(英文五三一頁)をテキストに、博士と二人で毎週二回交互に音読しながら丹念な翻訳と解釈の論議を続けておられる。
その趣旨は、博士執筆の「立憲君主制」(雑誌『心』昭和三十四年十一月号、のち前掲の全集『国を思う心』所収)などが参考になる。
すなわち、㋑ジョオジ五世(エリザベス二世の祖父)の生涯は「責任と義務ばかり多く、慰楽と休息の少ない君主の生活というものが、東西ともに変わらない」ことを示し、㋺「王が常に(終生)王位に在ること、及び党争外に中立すること」により「国または国民の永続的利害を察する上で、特殊の感覚と見識を養わしめる」、㋩「立憲君主は(政治家にも)道徳的な警告者たる役割を果たす」が、「そのためには君主が無私聡明、道徳的に信用ある人格として尊信を受ける人でなければならぬ」ことを、本書から学ぶことができるからである。
福沢諭吉の『帝室論』『尊王論』
小泉博士が他にも活用したのは、恩師福沢諭吉の『帝室論』(初出明治十五年)と『尊王論』(初出同二十一年)である。共に帝国議会の開設(同二十三年〈一八九〇〉)を見据えて、皇室(天皇)が政治(政党)争いに左右されず、永続することを念じた時務策ながら、今なお敬聴に値する。
その論旨は、博士自身の解説「帝室論抄」(初出昭和三十五年「文藝春秋」正月号、のち『国を思う心』所収)がある。すなわち、福沢は冒頭に「帝室は政治社外のものなり。帝室の尊厳とその神聖とを濫用すべからず」と明言した上で、帝室は「万機を統(すべ)るもの(reign)なり、万機に当たるもの(govern)に非ず」と位置づけ、その役割として「帝室は人心収攬の中心となり、国民政治論の軋轢を緩和し、海陸軍人の精神を別してその向ふ所をしらしめ、孝子節婦有功の者を賞して全国の徳風を篤くし、文を章び士を重んずるの例を示して我が日本の学問を独立せしめ、芸術を救うて文明の冨を増進する等」を挙げる。
しかも、それを実行するには、西洋王室に較べて極めて少ない帝室費を豊にする必要があり、「官林の幾分を割きて永久の御有に供するすること緊急なるべし」と具体的に提言する。これを承けて明治二十二年から木曽などの広大な「帝室御料林」が設定され、それによって多様な「恩賜」が可能になったのである。
小泉博士は、このような内外の著作なども使って、皇太子殿下の御教育係を二十年近く誠心誠意お務めになった。その間に著わされた『共産主義批判の常識』『平生の心がけ』(共に講談社学術文庫本もある)などから、私なりに学びえたことは、真に大きい。
(六月二十六日稿)