日本のソフトパワー/第10回 なぜ人は着る物で「よそおう」のか



四月五日(日)、東京のNHKホールで全日本きものコンサルタント協会主催の「全日本きもの装いコンテスト」を、審査員席から拝見した。各地区大会で選び抜かれた着装の達人たちは、外見だけでなく内面も凛として美しい。この機会に、人間が衣服を着る意味について考えることができた。

人の前に立つ心構え
度初めには、真新しい制服やスーツなどきちんと着た人を見かけることが多い。しかし、五月の連休が過ぎ六月の梅雨に入って蒸し暑くなると、子供も大人も服装がラフになりやすい。しかも十数年前から背広を着ない、ネクタイも締めないような「クールビズ」が奨励されている。

それは一面、合理的で必要なことかもしれない。とはいえ、人の前に立つリーダーまで軽装にすることが本当に良いことなのだろうか。私は家が貧しかったせいもあって、着られる物なら何年でも使い切る。ただ、人前に立つ時は、どんなに暑かろうと、一張羅の背広に好みのネクタイを外したことがない。それは他人に見映えをよくするよりも、自分の心持ちを引き締めるためである。

衣服を着て身体を装う智慧
人間は動物の一種であるが、他の動物と異なる智慧を持っているからHomoSapiensと称されるのあろう。ならば、人間らしい智慧とは何か。ほとんどの動物は、食う物(餌)と寝る所さえあれば生きていけるら、着るものを必要としない。そして人間も、極地でなければ裸でも生きられないわけではない。

しかし、人類は進化するにつれ、その時と所で安全快適に暮らす道具を作り、身につけることを発明した。その代表が着る物(衣服)にほかならない。しかも、それを単に着るだけでなく、その時と所にふさわしく装うことが、当に人間らしい智慧(文化)だといえよう。

この点に半世紀以上前から注目して「装道」を創唱し「装道礼法きもの学院」を設立して「和装と礼法の指導者を養成し、美しい日本の心と和装を蘇させる」事業に全力を注で来られたのが、山中典士氏にほかならない。その著『心を磨く一日一話』(平成二十二年刊)に「〝装う〟の語源は、良さを添えて覆うです」と説かれている。確かに国語学者林甕かめおみ臣(洋画家林武の父)著『日本語原学』でも「ヨソホフ」は「ヨサマ(良い様)ソヘ(添え)オフ(蔽う)」とみえる。

誰のために「よそおう」のか?

これは大変に面白い解釈であり、啓蒙的には有意義だと思われる。ただ、やや語呂合わせ的な感がある。そこで、友人の国語学者・京都産業大学名誉教授若井勲夫氏に尋ねたところ、次のような回答を頂いた。

すなわち「よそほふ」は「よそふ」と同じ言葉である(「ほ」は「は」の母音交替による未然形で、それに継続の助詞「ふ」を付けたもの)。「よそ」(他所、他人)に対して自分を良く整え飾ること、とくに身繕つくろい・身嗜たしなみ・身支度を美しく整えることである。それを少し広げれば「良さを添えて覆う」と解することも可能となろう。

それでは、私共が着る物で身を装うのは誰のためなのか。その参考になるのは、安政六年(一八五九)五月十九日、萩から江戸へ送られる直前の吉田松陰(数え三十歳)が、叔父の玉木文之進にあてた書簡である。

この中で松陰は、かつて野山獄中で訳述した『女じょか誡い 』七篇のうち、特に「専心篇」を引き、そのころ女性が家でだらしない格好をしながら、外出の時だけ外見をよく見せようとして化粧や衣装を飾る傾向を批判し、むしろ家で最も大事な夫や家族のために、美しく装うことこそ大切だ、と思うので、これを一族の婦女たちに伝えてほしい、と頼んでいる。

連載:「日本のソフトパワー」(隔月刊『装道』掲載) / 所  功

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