(37) 吉田松陰と長原武・梁川星巌



五月十五日、新緑の映える京都では、雅びな葵祭が晴れやかに行われた。そのヒロイン斎王代の輿丁(よちょう)と、神供の御幣櫃を荷う白丁などは、十数年前から京都産業大学の有志学生が奉仕している。

在職中それを手伝ってきたが、三年前から文化学部の鈴木教授にバトンを渡したので、今年は大阪の国民会館理事会に出て、夕方京都へ戻った。

その一、兵学者長原武との関係
翌十六日午前、JR垂井駅で従兄弟の橋本秀雄君と一緒になり、近く(垂井町追分)の太田三郎翁邸を訪ねた。同邸は「中山道ミニ博物館」を兼ね、貴重な面白い史資料が所狭しと陳列されている。しかし、訪問の目的は、それを拝見することよりも、垂井岩手出身の長原武(たけき)とその子孫について情報交換するためであった。

太田先生は、満93歳の現在も正に矍鑠(かくしゃく)としておられる。記憶の確かさ話題の豊かさには、驚くほかない。

実はNHK大河ドラマ「花燃ゆ」にも刺戟され、新年早々より『吉田松陰全集』(全10巻)を拾い読みしている。その間に、松陰から長原あての書簡が四通収められていること、また岩波書店版全集の月報「資料探訪記(五)」により、編纂委員広瀬豊氏が昭和七年秋に東京本郷の「長原担氏」を訪ねて自筆の手紙などを書写し収録したことまで知り得た。

しかし、現在それがどこにあるのか、戦後の大和書房版全集を見ても判らない。そこで、念のため大垣市史元編纂室長の清水進氏に尋ねたところ「垂井の文化財」第25集(平成十三年)所載の太田三郎論文「吉田松陰が讃えた偉大な長原武の人物像」のコピーが送られてきた。

それによれば、その前年(平成十二年)、太田先生は東村山市在住の和田やうさん(武の長男孝太郎の娘、担の妹)に「長原武の書類箱」を見せてもらったが、「松陰から武宛に来た書簡は、東京国立博物館へ昭和四十八年に寄付されている」ために、残念ながら自筆書簡を見ることはできなかったという。

けれども、この記事を頼りに東京国立博物館へ調査を申請してみた。すると、幸い担当のGさんが親切に探し出し、しかも四月末その寄贈書巻(松陰あて以外の書状も貼り合わせ)をデジタルライブラリーに公開して下さった。今や誰でも自由に閲覧することができる。(http://webarchives.mm.jp/dlib/detail/503吉田松陰筆)

この手懸かりを記録されていた太田先生に松陰書簡(カラー複写)を差し上げると、大層喜ばれ、武と子孫のエピソードをあれこれ話され、ついでに宿題も頂いた。

その長原武(1823~68)は、大垣藩兵学指南役の山本多右衛門から山鹿流兵法を学び、まもなく江戸へ出て山鹿素水に入門した。その修行中の嘉永四年(1851)、上府して素水に入門した吉田松陰(武より七つ下の22歳)と親しく交わり、師の著『練兵説略』の序文を(おそらく本文も)同門の宮部鼎蔵と三人で合作している。

このような関係から、嘉永六年、松陰(24歳)は大坂より伊勢の神宮に詣でてから江戸へ向かう途中、津で大垣藩士の野村藤蔭(斉藤拙堂門人)に会い、四日市を経て桑名から揖斐川を舟で上がり、今尾から歩いて大垣城下に至った。そこで、井上果斎(安積艮斎門人)と山本多右衛門(山鹿素水門人)を急いで訪ね、呂久の川渡を渡って美江寺に泊まった(五月十三日)。

これは長原が垂井に帰っておれば会うためであったが、上府中と聞いたので、中山道に入り、太田で福寄某の官舎に泊まり漢詩を詠んだ。やがて二十五日に江戸で「長原武を訪ね」、「松を詠む近製一篇の録」を示し「長原雅兄に郢正(えいせい)を乞ふ」ている(『癸丑遊歴日録』、漢詩の扇面は長原家所蔵)。

また、安政二年(1855)二月、萩の野山獄にいた松陰(26歳)は、上府する久保清太郎(24歳)に対して、江戸で「(美)濃長原武」を訪ねるよう勧め、「その人となり善良謹厚にして兵学を好み候。かつ久しく都下に居候事故、・・・萬(よろず)御相談なされてよき人なり」と紹介している。

さらに同四年九月、その清太郎が萩へ変える際、長原から『関ヶ原合戦記』の草稿を托されてきたので、それに添削を加えて返送する書簡の中に、近く上府する吉田栄太郎(稔麿)を「頗ル志気ある故・・・何卒御門生の列に御加へ御教導頼み奉り候」と推薦(他の書簡でも義弟の久坂玄瑞や画家の松浦松洞および尾寺新之允を在府の武に「志ある者」「僕の知己」等と紹介)している。

その二、漢詩人梁川星巌との関係
このように松陰は、長原武や野村・井上・山本らとの交友により美濃と縁を結んだが、それだけではない。安政五年(1858)正月、養家吉田氏の先祖について調べ『吉田家略叙』を纏めあげたが、その冒頭に何と次のごとく記している。

吉田氏、松野平介より出づ。平介の遠祖、けだし一条(天皇)朝の納言藤原行成なり。・・・平介、右大臣平(織田)信長に仕へて、美濃の舟木・呂久を領す。信長既に賊臣明智光秀に弑さるる所、平介陰(ひそか)に討賊の志を抱くも、事遂げられざるを料(はか)り、京都総見院に於て自尽せり。

すなわち、吉田氏の先祖「松野平介」は、織田信長に殉じた忠義の武士であり、しかも美濃の大垣に近い「舟木呂久」の領主だったという。

五年前(嘉永六年)呂久を通った時は、このような由緒を未だ知らなかったであろうが、調べてみると、平介の子重基が吉田を称し、孫の重賢が長州へ移り、曽孫の重矩以降、毛利藩に兵法指南として仕えた。

その上、重矩の次男政之が杉政常の養子に入り、その杉家に生まれて吉田家に入ったのが松陰である。まことに因縁が深い。

そこで、十六日午後、大垣市立「奥の細道むすびの地記念館」において開催された霊山(りょうぜん)顕彰会岐阜県支部総会の記念講演「明治維新の再発見」では、まず上記のような吉田松陰と美濃との関係に触れてから、大垣(曽根)出身の梁川星巌と松陰との関係に説き及んだ。

星巌(1789~1858)は、江戸で漢詩人として盛名を博した後、弘化三年(1846)から京都の鴨川端に居を構え、公家や上京志士たちと交流していた。嘉永六年(1853)十月一日、松陰(24歳)は、そこを初めて訪ねた際、星巌(45歳)から「今上(孝明天皇)の「天を敬ひ民を憐むこと至誠より発し(年中毎朝)鶏鳴に起きて・・・太平を致さんこと祈りたまふ」と聴いて感動し、あらためて「尊王攘夷」の志を深めている。

それ以後、松陰は安政元年(1854)米艦密航の夢成らず、野山獄と杉家に幽囚の身となってからも、星巌のもとに書簡を送り、萩から上京する同志などを紹介し、また天下の動静を探ろうとしていた。

さらに同五年(1858)、幕府から諸藩に勅許のえられない「日米修好通商条約」の調印是非を下問中と聞き及び、五月十五日「対策」と「愚論」(意見書)を星巌に送り、「何卒密に青雲遼廟の上(天朝)に達し候様」と仲介を懇請している。

しかも、松陰は五月二十八日、あらためて「続愚論」を書き上げ、六月二日、上京する中谷正亮に托して星巌のもとへ届けた。その内容は極めて雄大な建策であり、これ以降の日本近代化に重要な意味をもっている。

すなわち、従来のような「鎖国の説」は、一時しのぎにすぎず、今や「遠大の御大計」「万国航海仕り、智見を開き、富国強兵の大策」を立てなければならない。しかも、それには人材を育てるため、まず「京師に於て文武兼修の大学校を御造建になり」、皇族から庶民まで区別せず「天下の英雄豪傑をこの内へ集め候様」にしてほしい。

その費用は「諸宗の僧徒、また大坂その他富豪の者に献金させ」「将軍家・諸大名へも御手伝ひ仰せ付けられ」たらよい。とりわけ「航海」に優秀な人材を選び育て、近海から南アジアまで遣わすべきだ、などという具体的な提案である。

これらの意見書は、やがて星巌から公家を介し天朝に達した、との吉報が届いたようである。それを知った松陰は、大いに喜び、同五年十一月六日、「家厳君(父百合之助」/玉叔父(叔父玉木文之進)/家大兄(兄梅太郎)に宛てた書簡の中で、

さきに愚論数通を以て之れを梁川緯(星巌)に致す。緯ひそかに青雲の上を瀆して、けだし乙夜の覧(天覧)を経たりといふ。一介の草莽、区々の姓名(松陰の氏名)、聖天子(孝明天皇)の垂知を蒙むる。何の栄か之に加へん。

と特筆している。その上、翌六年十月二十日、処刑七日前に記した同じく三名あて書簡でも、「家祭には、私平生用ひ候硯(十年余著述を助けたる功臣なり)と、去年十(実は十一)月六日呈上仕り候書とを神主(霊牌)と成され候様に頼み奉り候」と遺言したのは、「愚論」数通が天覧に浴したことこそ、松陰にとって無上の光栄だったからであろう。その仲介をしたのが、美濃出身の「星巌老先生」にほかならない。

今春来このような人的関係を調べるにあたり、吉岡勲氏「吉田松陰と美濃」(初出昭和十八年、のち同氏著『恩師の道を仰いで』所収)、清水春一氏他編『美濃大垣十万石太平記』下(昭和六十一年)、桐山悟氏『兵学者長原武について』(平成七年『垂井の文化財』第十九集)及び太田三郎氏の前掲論文などが頗る参考になったことを明記し、各位の学恩に感謝したい。

 

<付記>

松陰の「京師に大学校を興す」という構想は、最期を迎える安政六年(1859)十月二十日付の入江杉蔵(九一)あて書簡に、より具体的な代案が記されている。

すなわち京都の鷹司家に仕える小林良典から聞いたところ、すでに弘化四年(1847)皇族・公家のために開設された「学習院」では、定日に「町人百姓」まで聴講を認められているというから、この学習院に「天下有志の者の出席(居寮寄宿)」と「天下有用の書籍(古書も近書も)献上」を許し、また「尊攘の人物(高山彦九郎・蒲生君平・雨森芳州・魚屋八兵衛など)や「菅公・和気公・楠公・新田公・織田公・豊臣公、近来の諸君子に至るまで」各々の「功徳次第に神牌を立つる」ことにより、ここを「尊攘堂の本山ともなる」ように提言している。

この「尊攘堂」は、松下村塾に学んだ品川弥二郎が遺志を継ぎ、維新の志士たちの肖像や遺墨などを収集・保存する殿堂として、明治二十年(1867)建設された。それが京都大学の構内(総合図書館の隣)へ移築されて現存する。その中に高杉晋作たちと共に長州で戦った美濃出身(赤坂の矢橋家に生まれ、大野の所家に入る)所郁太郎などの遺品も収蔵されている。

尚、上記の会場「奥の細道むすびの地記念館」では、多彩な展示資料と最新の3D映像により、芭蕉の足跡がリアルに理解できるよう工夫されている。また一階の「賢人館」には、大垣出身の梁川星巌や江馬蘭斎・飯沼慾斎などが判りやすく紹介されている。

(六月六日稿)

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