毎年「建国記念の日」には、どこかで講演をさせて頂くことが多い。
今年も奈良県の北葛城郡広陵町(4~6世紀の馬見古墳群の中心地)で開かれたモラロジー主催の教育者研究会において「ヤマト・日本国の成立史と学校教育」と題する話をしてきた。
それに先だって。神武天皇の和風諡号「カムヤマトイワレヒコノミコト」及び神功皇后と履中・清寧・継体・用明の各天皇が宮殿を営まれたという「イワレ」に関係のありそうな地域を調べるため、前日(二月十日)レンタカーで友人に運転してもらい、橿原市と桜井市を駆け廻った。
その前に最新情報を得られたらと思い、桜井市埋蔵文化センターへ寄ったところ、丁度昨年「磐余池」伝承地(香具山の北東麓)を発掘されたM氏から詳しく様子を聞くことができた。また六年前(平成二十一年)纏向遺蹟の巨大な建物遺構の発掘に多大な貢献をされた纏向學研究センターのH氏と出会い、JR巻向駅の東側にも三世紀代の建物遺構があることを確認できたと教えて頂いた。
そこで、翌日の講演は、前日の見聞などをふまえながら、
(イ)纏向の建物(特にD棟)は、三世紀前半の遺構と確定されており、その北と南に河道も確認されているから、これが第十代崇神天皇の「水垣宮」跡と推定され、この近くに垂仁・景行天皇の宮殿もあったと推測して大過ないこと、
(ロ)そうであれば、初代の神武天皇は、それより九代前(おそらく一世紀初め前後)九州から東征して「磐余」(桜井市南西郡から橿原市北東部あたり)に拠点をすえ、大物主(大国主)神を奉ずる在地の有力な三輪氏ゆかりの「ヒメタタライスズ(イスキヨリ)ヒメ」を妃に迎え、まもなく畝傍山近くの橿原宮で即位された、という記紀の伝承は大筋史実と推認できること、
(ハ)つまり、おおよそ一世紀初めころ神武天皇が香具山・畝傍山の周辺で朝廷の基盤を築かれ、やがて三世紀前半に崇神天皇が三輪山西北の「水垣宮」から各地へ皇族将軍を派遣して国内統一に乗り出されたこと、
(ニ)さらに四世紀前半ころ景行天皇の皇子日倭建命(ヤマトタケルノミコト=日本武尊)が九州も東国も平定されたのみならず、その後半には仲哀天皇の皇后息長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)が朝鮮(新羅)まで遠征されたことは、五世紀後半に雄略天皇=「倭王武」が中国(南朝の宋)へ送った上表文にも明示されていること、
(ホ)このヤマト朝廷が五~六世紀に中国から朝鮮(百済)を経て儒教や仏教を受け入れ、やがて七世紀代に隋唐から学んだ律令法制を形作り「日本」という国名も「天皇」という帝号も成立するに至ったことなどを、史料に即して話した。
これは幸い百数十名の来聴者に理解して頂けたようである。
ただ、後で年配の方から、「神武天皇は2675年前に即位されたんじゃないのですか」と尋ねられた。
この点は丁寧な説明を要するが、簡単にいえば『日本書紀』(ないし『天皇記・国記』)の編纂者は、日本の建国が非常に古いことを誇示するため、中国伝来の「辛酉革命」説に基づいて、推古女帝9年辛酉(601)より1260年前の辛酉(BC660年)を「神武天皇即位元年」と設定したものとみられる。
従って、その心意気は評価したいが、初代天皇の実在年代は一世紀初め前後と推測することが史実に近い、と私には思われる。
(二月二十二日)