たぶん近頃は誰もそうであろうが、身近に多種多様な情報が溢れている。私の場合、テレビ以外に定期購読中の全国紙が二種、学術誌が四種あり、また色々な機縁で長年受贈している週刊の雑誌が六種、月刊・季刊の専門誌が五種、一般雑誌が十数種、それ以外に寄贈される書物や抜刷なども年々ふえつゝある。
それらを全部精読しているわけではない。しかし、昭和四十年代から自ら論文・著書を出し、また月刊誌『日本』や学術誌『藝林』『神道史研究』『国書逸文研究』および研究所の所報・紀要などの編集を手伝ってきた経験上、執筆者や編集者の苦心工夫を想うと、一通り目を通さなければ申し訳ない気もするので、可能な限り頁を捲ってゆく。
そして、まずよく読むのがコラム(研究余録・評論随筆など)である。それは論文のように長くないが、内容的に深いものが多い。しかも、それを機に自分で考えたり調べたりして、意外な発見の喜びを味わうことも少なくない。そんな一例が昨日あったので、メモを書いて編集者に礼状を添えて送った。その全文をここに引いておこう。
(かんせいPLAZA、平成二十八年七月六日)
本日自宅(小田原)で受贈した神宮司庁編『瑞垣』二三四号(平成二十八年初夏号、A5判、一五〇頁)は、毎号のことながら、大変充実した内容で一気に目を通した。とりわけ先般(五月三十日)このHP「かんせいPLAZA」でも紹介した伊勢志摩サミット首脳の神宮表敬「記帳」全文が、各自筆の写真に試訳も添え掲載されていることは、まことにありがたい。
その中に「こぼれ話」として「〝宮〟の字」(以下、〝宮〟は「ノ」なし)と題する音羽悟氏(広報課長補佐)の一頁コラムがあり、すこぶる興味を覚えた。これによると、一般に「お伊勢さん」の名で親しまれる伊勢の「神宮」(皇大神宮・豊受大神宮)では、「古来〝宮〟の字を慣例で使用してき」たから「現在も看板や毛筆体の正式文書等には〝ノ〟なしの〝宮〟の字を専ら使用している」という(神宮公式ホームページ掲載の画像①)
その裏付けとして、神宮関係史料のうち、(イ)「平安末期(一一四四)の『天養記』(重要文化財)の官宣旨案や祭主下文案等」、(ロ)「鎌倉時代の古写本」の『皇太神宮儀式帳』『止由気宮儀式帳』」、(ハ)「室町末期の古写本」の『皇大神宮年中行事』、(ニ)「元禄年間に林大学頭鳳岡が筆録した豊宮崎文庫の扁額」にみえる〝宮〟が挙げられている。
そこで、この機会に少し調べたことをメモしておこう。その一つは、「宮」をなぜ、「ノ」のない〝宮〟と書くのか、もう一つは、その〝宮〟の用例はどこまで遡りうるか、である。
まず前者に関しては、白川静氏の『字統』(平凡社、画像②・③)によれば、「宮」は殷代の甲骨文(画像の○●○●)も青銅器類の金文(画像の◎)も「宀」(廟堂)と「呂」(宮室)から成る。下の「呂」も、甲骨文・金文がほぼ同じ〝呂〟(「ノ」なし)で、「青銅器などを作る時の銅塊の形」を表すという。従って、「宮」は、むしろ元来〝宮〟(「ノ」なし)であったとみられる。
つぎに「ノ」のない〝宮〟の用例は、五・六・七世紀代の金石文(「宮」か〝宮〟か不鮮明)を別にすれば、八世紀代の木簡や文書に少なからず見られる。たとえば奈良文化財研究所の「木簡データベース」(木簡字典)を検索すると、平城京出土木簡に天平七年(七三五)十月「若田部〝宮〟」とか天平勝宝八歳(七五六)八月十六日「〝宮〟舎人」等とあり、年月日不明ながら、平城宮蹟内(奈良市佐紀町)から出た付札にも「大神〝宮〟」と明記されている(木簡データベース掲載の画像④)。
なお『正倉院文書』正編の天平十七年四月十八日「大粮申請雑文」にも〝宮〟の字がある。従って、「ノ」のない〝宮〟の字は、少なくとも奈良時代から広く用いられていたとみられる。
ちなみに、伊勢の「大神宮」は、「皇太神宮」(前記の儀式帳古写本)のように、「太」字の用例が多い。しかし、右の平城宮蹟木簡にはハッキリ「大神宮」と書かれている。とはいえ、藤原京出土木簡や正倉院文書(戸籍など)を見ると、『続日本紀』に改元記事のある「大寶」年号(七〇一~七〇四)は、ほとんど「太寶」と記されている。
この点も、「大」の方が「太」より古いようである。前掲『字統』によれば、「大」は「人の正面形に象る」が、「太」は「大から分岐したもの」で古くから「区別なく用いた」けれども、のち「太一神・太陰・太陽・太極・太玄・太山・太子・太公望などは、慣用的に太を用いる」ようになったという。
(平成二十八年七月四日夜記)