平成二十四年春、京都産業大学を定年退職後、モラロジー研究所へ研究主幹というポストで奉職してから、まもなく満四年になる。
ここでは、通常、毎週一回(原則水曜日)、柏の研究所へ出勤して、皇室関係の資料文庫を構築する長期計画の基礎作業を進め、また内部の研究員と外部の研究者による研究会で一緒に勉学し、さらに私自身も道徳科学研究センターや麗澤大学の比較文明文化研究センターなどで発表したりする機会に恵まれている。
しかも、当研究所は、公益財団法人として社会教育に貢献することが大きな役割とされているから、全国各地のモラロジー事務所などを中心に、有志が多様な奉仕活動を展開している。そこで、そのような有志の企画する大小の集会に出講を求められることも少なくない。この二月には、京都と松山へ出かけた。
京都で「建国記念の日」制定五十周年記念奉祝の集い
その一つは、二月十一日、京都産業会館において開催された「建国記念の日」制定五十周年を奉祝する大会である。これは京滋地区のモラロジー青年リーダーが中心になって、数年前から始めた旧紀元節の奉祝会を、今年は祝日制定五十周年にちなんで、より盛大に実行するため、関係者が早くから周到な準備を重ねてきた。そのおかげで、一般市民四百名以上の参加する盛会となった。
ここで話したことは、
①明治初年に「紀元節」が国家の祝日として制定され、以後その二月十一日が国民教育に大きな役割を果たしてきたこと。
②それが敗戦後、GHQの指令で昭和二十三年に新しく制定した「国民の祝日」から強制的に排除されたこと。
③それに対して直後から、記紀批判の津田左右吉博士すら「建国記念の日」を設けるよう提唱し、さまざまな反対運動を乗り越えて、ようやく昭和四十一年(一九六六)これが「国民の祝日」に加えられたこと。
④ただ、文字記録のない大昔から徐々に国家を形成した日本では、「建国の日」を特定することができない。その代わり、『日本書紀』で神武天皇の即位元年と設定した元日を新暦に換算したBC六六〇年の二月十一日が「建国を制定するにふさわしい日」として選ばれたこと。
⑤現代の歴史学では、第十代崇神天皇が三世紀前半に実在されたと認定するなら、初代の在位は一世紀初めころと推定しうること。
⑥それから段々に国家の統一が進められ、対外的に独立の象徴として「日本」という国号を主張したのは七世紀初め(唐により公認されたのは八世紀初め)とみられること、などである。(詳しくは日本学協会HP「日本」二月号の「今月の課題」拙稿参照)
松山で「日本の歴史を学ぶ会」
もう一つは、二月二十八日、松山市の椿宮会館において行われた「日本の歴史を学ぶ会」である。これは愛媛県モラロジー協議会の村上富英氏を中心とする有志が、平成の初めから続けておられる勉強会で、参加者は三十数名ながら、皆さん真剣に学ぼうと熱心に聴いてくださった。
ここで話したテーマは「穂積兄弟と廣池千九郎の家族国家論」とした。
①穂積兄弟とは、幕末に宇和島藩で国学者の家に生まれ育ち、東大を出て英独に留学し、東大教授・法学者として活躍した陳重博士と八束博士である。
②その陳重博士に入門して未開拓の「東洋法制史(家族制度史)」の研究に取り組み、東大から法学博士の学位を授与されたのが廣池千九郎に他ならない。
③この三者に共通しているのは、「皇室と我が国民は……祖先を同じくし、随って親族関係を有するものと称すべく……天祖(天照大神)を以て大祖先と為し……その大祖先の直系御子孫たる皇室は、家長の性質を以て君主と為り給ひ、臣民は家族の性質を以て之に仕へ奉るものと見るをすべきなり」(廣池千九郎『伊勢神宮と我が国体』)という日本=家族国家論である。
④それは、八束博士が早く明治三十年から公表しているが、陳重博士も同三十二年ローマの万国東洋学会において行った講演Ancestor-worship and Japanese Law(祖先祭祀と日本の法律)で明言している。
⑤その上、この基本的な考えが、穂積兄弟の尽力により完成した明治民法(親族篇・相続篇)の大前提となっている意味は、極めて大きい。
(HPかんせいPLAZA 平成二十八年三月一日 所功 記)