日本のソフトパワー/第14回 即決しない座問答の知恵



定年を機に、生まれ育った岐阜県(揖斐川町/いびがわ)から娘家族のいる神奈川県(小田原市)へ移り住んで、はや五年目になる。幸い健康に恵まれ、毎週一回か二回、千葉県柏市にあるモラロジー研究 所や都内での研究会などに出るが、その途上で車窓から観る四季折々の風景が美しい、また上野や横浜などで降りて、多彩な展覧会などが観られるのも楽しい。

由緒ある式内社と一宮・総社
しかし、歴史家の端くれとしては、地元の史蹟を訪ねたいと思うが、大学在職中よりも雑用が多く、なかなかゆっくり休めない。やっと昨年末、婿の誘いに乗って、相模国の一宮・二宮・三宮を巡ることができた。日本の古い神話は、飛鳥時代(ほぼ七世紀)以前から自然や祖先の神々を招いて祀る〝依り代/よりしろ〟が、常設のヤシロになったものとみられる。その多くは、平安前期(ほぼ九世紀)に編められた『延喜式/えんぎしき』の「神名帳/じんみょうちょう」に〝宮社〟(神祇官の所管社)として登録され、大小あわせて三千社以上にのぼる。

そのころ、各国では国司(官選知事)が赴任すると、有力な神社を巡拝する風習があり、それによって一宮・二宮・三宮という呼称ができたと考えられるが、また、平安後期(ほぼ十一世紀)ころから国府(各国の政庁)に国内の全神社を統括する「総社」が造られている。

相模国の一宮・二宮・三宮めぐり
そこで、まず小田原に近い中部二宮町の川匂(かわわ)神社、つぎに、伊勢原市三之宮町の比々多(ひびた)神社、さらに高座郡寒川町の寒川(さむかわ)神社を訪ねたが、一・二・三の順に略述しよう。

まず一宮の寒川神社は、JR相模線の宮山駅近くにある。関八州の開拓神・総鎮守と仰がれ、八方除(はっぽうよけ)の守護神で、ほぼ真西に富士山を望むパワースポットとしても注目度が高い。

ついで二宮の川匂神社は、国道一号線から少し入った山麓にある。大化前代から「磯長(しなが)国」の中心の地で、国土開拓守護神の大国主命(おおくにぬしのみこと)などを祀る。

さらに三宮の比々多神社は、国道二四六号線から少し入った所にある。「冠大明神」とも称され、国土創造の豊斟淳尊(とよくむめのみこと)などを祀る。その時は廻れなかったが、平塚市四之宮町の前鳥(まえとり)神社が四宮、また平塚市浅間町の平塚八幡宮が五宮とされている。

総社の近くで「座問答」を繰り返す
このような一宮以下の順番(地位)は、全国的に見ると、途中で勢力争いや国府の移動などにより変更されている例が少なくない。

それが、相模国の場合は、かつて東側の「相武(さがむ)国」と西側の「磯長国」に分かれていたのを、大化改新(七世紀中頃)以降に統合したその結果、やがて東側代表の寒川神社を一宮とし、西側代表の川匂神社を二宮と称することになった。しかし、各々を奉ずる在地の豪族たちは、その地位をめぐり争い続けてきたようである。
その争いを年中行事化したのが「座問答」にほかならない。これは相模国府の置かれていた中郡大磯町の国府本郷にある総社の六所神社(出雲系の櫛稲田姫命[くしいなだひめのみこと]などを祀る)の近くで毎年五月五日に行われる。

これを再び婿と一緒に見てきた。当日午前十時ころから、総社の御旅所(おたびしょ)がある神揃山(かみぞろいやま)に、一宮より五宮までの神輿が担ぎ込まれる。そして正午、寒川神社と川匂神社の神主が、仮設の神前で「神座」に見立てた虎の皮をお互いに三回ずつ前ヘ進めて、自社こそ上位だとし坐問答しあう。

しかし、容易に決着がつかないので、三宮の宮司が仲裁に入り「いずれ明年まで」と言い渡すと、一宮も二宮も争いを止めて引き下がる。それを見て、周囲に集まった人々が(私共も)笑顔で拍手を送った。

これは面白い。近ごろは何でも対立すると、強硬に自説を主張して勝負を即決する。その結果、勝った方は増長し、負けた方は逆恨みしかねない。それよりも双方に言い分があれば、次の機会まで持ち越して、互いにじっくり考え直す。これも日本的な和合の知恵だと思われる。

連載:「日本のソフトパワー」(隔月刊『装道』掲載) / 所  功

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