(59)吉田松陰と玉木彦介の「安政地震」情報



あの東日本大震災から、まもなく満五年になる。火山の多い日本列島では、遥か昔から大小の地震に襲われてきた。

その一つが、幕末の安政二年(一八五五)十月二日(新暦十一月十一日)、江戸一帯(関東南部)において起きたM7(最大震度6)死者約一万人と推定される〝安政大地震〟である。しかも、前年にペリーが再来し、吉田松陰が下田で米艦への乗り込みに失敗してから八ケ月後(十一月)、東海・南海と豊予海峡で同程度の大地震が続発している。

従って、この前後の地震資料は、数多く残っており、研究も進んでいる。その関連情報として興味深い記録の一つを紹介しよう。それは戦前から『吉田松陰全集』に所収される『玉木彦介日記』の一節である。その原本は、彦介が戦死した後、乃木希典の実弟が玉木家の養子に入った関係から、東京の乃木神社に寄贈されている。それを昨年八月、詳しく拝見することができた。

この安政二年十月当時、松陰(26歳)は萩の野山獄にあり、甥(松陰の叔父玉木文之進の長男)の彦介(15歳)は、二月から藩命を受けて相模湾の警備の任に就き、父子共に三浦半島宮田の陣屋にいた。そのころ彦介は、日常の行動や勉学の簡略な記録『日記』を書き、月末ごとに松陰のもとへ送ると、松陰が批評を加えて返すような親しい仲であった。

そこで、この前後の『日記』をみると、彦介が九月二十八日、遠州灘で起きた地震について「此夜六ツ時、小地震」と記した部分に対し、松陰が「当地(萩)では二十九日より度々小地震、言ふに足らず」と朱筆で書き加えている。

しかし、十月二日の大地震については、彦介も少し詳しく次のように書き留めている。

「二日、終日曇天。……夜四つ時、大地震ニテ宮田御陣屋内、大抵崩。横死人、足軽壱人、笹田組三人、糸賀外衛家来壱人、平野小太郎中門壱人、以上六人。其外崩家埋込れ候も、段々有。皆々助り申候。ゆり出す、かけり出ス直様崩ル。」

これを読んだ松陰は、「六人」の横に「憐むべし」、また「助り」の横に「不幸中の幸」、さらに末尾に「紀(記事)簡明を得て生色あり」と所感を朱書している。それだけでなく、別冊の余白に十月十四日付で

「去(十)月廿九日ヨリ此地(萩)度々地震。江戸甚シカリシト風聞、実ナリヤ否。貴地(三浦)など如何。案労此事ナリ。……日本ハ火脈多ク、特に関以東ハ所詮大変アリ。恐るべし。」

と現状の認識を示すと共に、「宋の孫甫」が唱える地震説は「余もとより信ぜず」と退け、また「浮屠(僧)月性」が「天地ノ変災、皆是戎狄(外人)ヲ近クルノ罰なりと罵る」のも、「入らぬ問答」と却けて、冷静に対処すべきこと示唆している。

記事・朱注はこれだけにすぎないが、江戸に近い三浦半島(現三浦市初音町あたり)で彦介が体験した実情と、江戸から遠い萩の獄中にいた松陰の所感を、リアルに知ることができる。これをみても、身近な見聞や所感を日々メモしておくことは、少なからぬ意味があると思われる。

(HPかんせいPLAZA  二月二十日 所功 記)

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