全六十巻の編年記録
宮内庁(書陵部編集課)で平成二年(一九九〇年)から編纂を進めてきた『昭和天皇実録』が完成して、本年八月二十一日、今上陛下のもとに奉呈された。全六十巻(他に目次・凡例一巻)一万二千頁強(九七二万字超)にのぼる。
この実録は、明治三十四年(一九〇一年)御誕生から八十七年八ヶ月余にわたる昭和天皇の御生涯を編年体により綴ったものである。祖父帝の宮内庁編『明治天皇紀』は、大正三年(一九一四年)より昭和八年まで二十年近くかけて完成したが、戦後ようやく昭和四十年代に刊行された。それに対して、今回は奉呈後二十日足らずで一般公開され、来春から数年かけて出版される。これは、皇室に心を寄せる私ども平成の国民として、まことにありがたい。長らく編纂に従事し協力された方々に更めて感謝したい。
私は一般公開に先立ち、宮内庁から報道機関に渡されたデジタルデータのコピーにより全巻を十日程で通読し、所感を述べる役目を与えられた。その一端は九月九日以降の全国紙等に紹介されたが、マスコミの関心は昭和天皇と戦争の関係に集中してしまい、それ以前の御幼少期から成年前後までの記事(大半が非公開のお手元記録に基づく目新しい事実)は僅かしか採り上げられていない。
史料としての大御歌(ルビ/おおみうた)
もう一つ注目すべきは、即位前からの御歌も即位後の御歌も、それぞれいつどこで詠まれたか判る記事の中に引かれていることである。これによって大御歌の史料性が一層高まったといえよう。
昭和天皇の初出歌は、従来『おほうなばら』(宮内庁侍従職編、平成二年、読売新聞社)等に、大正十年一月十日(その四月に満二十歳)の歌会始で公表された
「とりがねに夜はほのぼのとあけそめて代々木の宮(明治神宮)のもりぞみえゆく」
が掲げられている。
ただ、この『実録』では、すでに明治四十四年(十歳)十二月二日。、「来る新年の歌御会始」用の「御歌をお考えになるも、この日はおできにならなかった」ので、側近たちは「自然な御発想により、真の御興味から湧き出るものを詠み出される」まで無理じいしないことにした。(巻三134頁)。そして大正六年(十六歳)一月一日、「作歌を試みられ」沼津御用邸の海岸から眺望された赤石山脈(南アルプス)について
「赤石の山をはるかにながむればけさうつくしく雪ぞつもれる」
と詠まれ、「東宮侍従長入江為守に示され」たが(巻五71頁)、まだ歌御会始では披露されていない。
節約実行の思召(ルビ/おぼしめ)し
しかし、大正十年秋に欧州歴訪から帰朝して摂政に就任されたころから段々と上達され、昭和に入ると見事な御製が多くなる。そのうち、この『実録』に初めて紹介された二首が面白い。それは昭和四年(二十八歳)十月二十八日。「目下丿経済界丿状況(大恐慌)ニ鑑ミ……宮内省ニ於テモ整理緊縮方針ヲ徹底セヨ」と「自らめられた御沙汰書を下付され」「一大決心を示された」のに、十一月七日「我が理想は一つも実行され居らざる」を見られて、
つとめつるかひあるべきを実の一だになき世をぞ思ふ
つとめつるかひあらざれば実の一つなきうたをしぞ思ふ
との御製を侍従長鈴木貫太郎に示しておられる(巻十六150・156頁)。申すまでもなく、太田道灌が雨に降られてでも借りようと寄った家の少女から「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」という兼明親王の名歌と共に山吹の実を渡された、との故事をふまえて「御節約の思召し」を示されたのである。
このような大御歌は、直接的な御言葉と共に、昭和天皇の大御心を伺う最も重要な史料である。それが五百首近くも『実録』に収蔵された意味は、極めて大きい。
連載:「日本のソフトパワー」(隔月刊『装道』掲載) / 所 功