※添付資料に京都新聞記事PDFがあります。
十一月二十七日(木)京都へ出かけた。京都新聞社において毎年選考する同新聞大賞のうち「教育社会賞」の対象となり、その贈呈式に参列するためである。
私は昭和五十六年(一九八一)春から定年まで三十一年間、京都産業大学に奉職したが、岐阜の自宅と京都の下宿(家内の実家)と大学とを行き来する慌ただしい生活の繰り返しであった。そのため、大学にも学生にも十分貢献できず、まして京都の市にも府にも役立つようなことを殆ど為しえていない。
それにも拘わらず、「長年にわたり京都を中心とした研究で京都文化の発展・発信に寄与」「京都文化を取り上げた授業を多数開講して多くの優れた学生を育成」したことなどを理由として表彰されたことは恐縮するほかないが、この受贈に感謝しながら、今後わずかでも京都に御恩返しを心掛けたい。
その午後、家内と共に南禅寺境外塔頭の「光雲寺」を訪ねた。同寺は江戸初期、大坂の四天王寺近くから当地へ還され、後水尾天皇の中宮(皇后)であった東福門院(德川秀忠と江(ごう)の娘和子)が深く帰依し菩提寺とされた縁により、女院の崩御(一六七八)直後、精巧な木像が造られ本堂に祀り続けられてきた。ここは平生非公開ながら今秋特別公開されると聞き、初めて参詣することができた。
その主な目的は、東福門院像に被せられている宝冠を拝見することにほかならない。これは後桜町女帝の御即位式(一七六三)に際し新たに造られた「宝冠」のモデルとされたことが柳原紀光の日記に明記されている。そこで、十二年前から京都産大(日本文化研究所)の人々と女帝の御宸記を解読してきた私は、このモデルを確かめたかったのである。
幸い当日は、田中寬洲住職が自ら懇切に御案内賜り、内々に本堂の壇上で尊像を間近に見せて下さった。そのお陰により、写真では判らない宝冠の側面も髪型も着色の衣服も熟慮することができた。
しかも、その後、比叡山を借景とする紅葉の庭園を観ながら、田中御住職が思いがけないことを言われた。同氏は西洋哲学の研究者であったが、発心して禅の修行を積み光雲寺の住職となり、南禅寺を造営した南院国師(規庵祖円)の語録を全文訓読することなどに努め、やがて東洋倫理を再建するために、明治天皇の侍講元田永孚が編纂した宮内省蔵版『幼学綱要』全文の現代語訳に取り組み、その原稿(入力)が漸く出来たので、校閲をしてほしいとの申し出である。
もちろん、非力な私はその任に耐え難いが、かって「教育勅語」の成立史を再検討した際、原案起草者井上毅の同郷先輩である元田翁が、天皇・皇后両陛下の絶大な信頼をえて後輩の井上に協力し助言した見識に敬服していたこともあり、勉強のつもりで原稿を預かった。これも不思議な因縁というほかない。
翌二十八日は、京都産大の「むすびわざ館」において退職教職員と現役教職員との交流懇親会に出席。その午後、一年ぶりに読売テレビ(大阪)「たかじん・・・委員会」に出演(十二月七日放送予定)。両方とも懐かしい人々に再会できたのは、元気に出歩けるようになったからだと健康のありがたさをかみしめている。
(十二月五日記)