深谷市で藍玉と養蚕を営んできた渋沢栄一(一八四〇年生まれ)と、その妻の兄(儒学の師匠でもあった)の尾高惇忠(一八三〇年生まれ)である。
渋沢は慶応三年(一八六七)ヨーロッパ諸国をまわり、当時フランスもイタリアも蚕の病気で生糸生産が壊滅状態にあることを知った。そこで、明治二年(一八六九)新政府の大蔵省に入ると、生糸を輸出の目玉とするため、富岡製糸場の開設に主力を注いだ。その初代場長となって成功に導いたのが、人望の厚い尾高である。
もちろん、その工場建設と技術指導に貢献したのは、優秀なフランス人P・ブリュナなどお雇い外国人である。ただ、彼等が数年で帰国すると、その間に万事習得した日本人が、幹部も工女も一丸となって上質な生糸を作り、その技法を全国各地に弘めている。
原合名会社と片倉製糸
この富岡製糸場は、最新の機械と高度の技術をもたらしたフランスなどから、資本まで出して直轄下する提案もあったが、新政府の伊藤博文らは独立を守るために巨費を投じて官営事業とした。
しかし、その経営は容易でなかった。他の官営工場と同様、一応基盤ができると民営化されることになり、明治二十六年(一八九三)三井高保に払い下げられた。その運営には、大分県中津出身の福沢諭吉門下生が深く関与している。
ついで、九年後の明治三十五年、この製糸場を三井から譲り受けたのが原冨太郎(三渓)である。原家は、幕末から横浜に出て生糸問屋を営み成功した善次郎の没後、岐阜出身で婿養子に迎えられていた冨太郎が、富岡製糸場などを手に入れ「原合名会社」とした。
彼は場内に設けた養蚕改良部・蚕糸研究課で品質向上に努め、最新式の機械導入などに力を入れて、生産を飛躍的に増大させた。大正時代の日本全国総生産高は、世界の六割も占めたという。
しかし、昭和に入ると、人絹糸(化繊レーヨン)が出廻り、アメリカ大恐慌の影響もあって、富岡製糸場の経営は昭和十四年(一九三九)、原から片倉製糸紡績株式会社に移された。
片倉家は、明治時代から現長野県岡谷市・松本市で製糸業を営んで成功した兼太郎の没後も、弟らにより事業を拡大していた。富岡製糸場を入手したころから戦争状態となったが、苦難を耐え抜き、戦後も頑張って昭和六十二年(一九八七)まで操業を続けた。その上、以後も片倉工業が製糸場の修繕・管理に努め、平成十七年(二〇〇五)一括して富岡市に寄贈した。だからこそ、このたび近代化の模範的な産業遺跡として世界文化遺産に登録されえたのである。
遺産解説員と行啓記念碑
この富岡製糸場では、十年程前から世界遺産伝導師協会などが作られ、研修を積んだ解説員数十名によるボランティア・ガイドが毎日(各回約四十分)行われている。私の時も上品な婦人が懇切に案内してくださり、かなり難しい質問にも的確に答えられた。
ただ、入口脇に立つ大きな「行啓記念碑」は、通常の案内コースに含まていない。そこで、 帰り際に碑を仰いでいたところ、年輩の解説員が気付いて説明をされた上に、碑文のコピーまでくださった。
この碑は、明治六年の皇太后・皇后両陛下行啓から七十年後の昭和十八年(一九四三)、徳富蘇峰翁の撰文で建てられ、その中に「いと車とくもめぐりて大御代の冨をたすくる道ひらけつゝ」という美は るこ 子皇后さまの御歌も引かれている。
しかし、それから七十余年後の今日、製糸場は世界文化遺産となったが、もはや製糸業を行いえない遺跡と化している。一方、皇居内では美智子皇后さまによって護られた純国産の蚕(小石丸)による絹糸で正倉院御物などの復元も行われている。このような事実から、私共は何を学ぶことができるだろうか。
連載:「日本のソフトパワー」(隔月刊『装道』掲載) / 所 功