氏名と番号の長所と短所
人間、とりわけ日本人は、ほとんど誰でも氏と名を持っている。その氏は、本来広義の血縁的な氏族集団名であったが、今では家系別の家名( 苗み ょう字じ )にほかならない。また名は、個人の呼称であり、多くは親が名付ける。従って、家の存在を大切にしてきた日本人は、家名を重んずる。また個々人の名前は、名付け親の願いや祈りなどが込められており、大事にするのが当然であろう。氏も名も、その家その人の特色を示す貴重な文化といってよい。
一方、私共は氏名だけでなく、身分証・保険証・免許証や諸通帳などに番号で登録され、その番号で呼ばれることが少なくない。それは、氏名のように重複したり読み違えることがないので、より正確といえるかもしれない。
しかし、万一すべて氏名を消し去り番号だけにするとか、番号を主にして氏名を補うことにしたら、あたかも機械か囚人のような扱いで、無味乾燥というか殺伐たる感を否み難い。番号は便利だとしても、人間的な味わいを表すことができない。
年号と西暦の長所・短所
ところが、年次を表す方法として、近ごろ年号(元号)ではなく、西暦だけとか西暦を主に使う人が多くなりつつある。この西暦は、本来キリスト生誕紀元であるから、紀元前はB.C. 《BeforeChrist》、紀元後はラテン語でA.D.《Anno Domini》を冠して示す。ただ今では、キリスト教圏以外でも国際的な紀年法として通用するから、B.C. 以外は単に数字だけで年次を表すことが多い。従って、一直線に続く西暦は、前後の関係が計算し易く、また諸外国との年代比較も解り易い。
一方、年号は、中国から伝来した漢字文化の一つで、人名のごとく特定の漢字を年数の上に冠する。それが日本では、「大化」(六四五年)「大宝」(七〇一年)の昔から天皇の代替りや祥瑞・災異などのたびに改元されてきたので、平均五年ほどしか続いていない。
しかし、「明治」改元(一八六八年)からは天皇一代に年号一つ(一代一号=一世一元)とされ、元号が公称となった。現に昭和五十四年(一九七九)成立の「元号法」でも、「元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」と定められている。しかも、それが天皇の追号として贈られることになり、併せて時代の呼称にも用いられる。それゆえに、「明治・大正・昭和時代」という名称には、数字だけの西暦で表せない味わいがある。
今上陛下と時を刻む日本人
このように見てくると、元号は西暦にない文化的な長所をもっており、それは「日本のソフト・パワー」の一例といってよいであろう。
特に現在の「平成」という元号は、昭和六十四年(一九八九)一月七日、新天皇の践せん祚そ 直後に定められた。その出典は『史記』の「内平らかに外成る」、『書経』の「地平らかに天成る」に拠っており「国の内外にも天地にも平和が達成される」ことを意味する。
従って、この元号「平成」を使うことは、天皇を国家・国民統合の象徴と仰ぐ日本人が、今上陛下と共に時を刻んでいることを自覚し、国民一体となって「平和達成」の理想を祈願することにもなろう。
ちなみに今春、私は若い研究者の協力を得て、編著『日本年号史大事典』(A5判八〇八頁、雄山閣)を出版した。これが、年号=元号文化の再認識に少しでも役立つことを念じてやまない。
連載:「日本のソフトパワー」(隔月刊『装道』掲載) / 所 功