公的文書の年次表記に関する基本原則



所  功

一、文春新書『元号』まもなく出版

「平成」と改元されて三十年目、しかも、来年五月一日には、第一二六代目の天皇陛下のもとで、新しい元号が施行される。

そのような時の流れを見据えて、昨年春に文春新書の編集者から「元号(年号)」に関する書きおろしの依頼を受けた。そこで、平成二十六年(二〇一四)に雄山閣から編著『日本年号史大事典』(A5判八〇八頁)を作る際に協力をえた久禮旦雄氏と吉野健一氏および橋本富太郎氏に再び分担してもらうことにした。それがようやく完成し、三月二十日付で出版される。

これは四十年余り前(昭和五十二年)、私が文部省に教科書調査官として在職中、そのころ賛否両論の激しかった「元号法」の歴史的根拠を提示する必要があると思い、単独で書きあげた『日本の年号―揺れ動く〈元号〉問題の原点―』(雄山閣カルチャーブックス)をベースにしている。

しかしながら、その後、年号=元号に関する研究は、著しく進展している。今回、それらを採り入れて、面目一新の『元号―年号から読み解く日本史―』を仕上げるに至ったことに、深い感慨を覚える(序・一・二前半=所、二後半・三=久禮、四・五=吉野、六・七・八=所、付表Ⅰ・Ⅱ=橋本)。

二、「平成」改元と公私の年次表記

「元号法」が成立してから十年目の昭和六十三年(一九八八)九月十九日、昭和天皇が大量吐血され、一一一日の御闘病後、翌六十四年一月七日(土)に崩御された。その間、政府(竹下内閣)では、万一に備えて改元に必要な諸準備を内密で進めた。そして当日の午前十時、「剣璽等承継の儀」を経て皇位継承された今上陛下(五十五歳)のもとで、新元号は「平成」と決定された。翌一月八日(日)零時から施行されている。

しかし、明日をも知れぬ御闘病中、新年の年次表記をどうするべきか戸惑いを生じた。そして、従来ほとんど当然のごとく昭和年号を使ってきたマスコミなどで、このような機会に、西暦を主とし括弧内に元号を補うか、西暦だけで表記する形に切り替えてしまい、それが今や一般化している。

けれども、今なお中央・地方の官庁から出す公的文書(免許証等)や、一般の国民から役所などに出す書類(出生・結婚・死亡の届等)だけでなく、民営の郵便局・銀行なども通帳や契約書類には、元号を使って統一することが原則となっている(地方自治体では、最近、元号を主とし西暦を補う形の公的表記が増えている)。もし雑多な表記を放任しておくと、混乱や誤解を生ずる恐れが予想されるからであろう。

三、卒業証書や学位記の年次表記

では、小・中・高校の卒業証書や、大学の学位記などの場合、どうなっているのだろうか。これも従来は、慣例として元号で表記するのが当然とされてきた。

ところが、平成に入ってから、関西のある公立中学校でトラブルが生じた。そこの卒業生(背後に複数の組織も関与か)が、元号で表記された卒業証書の受け取りを拒否して、西暦のみの表記を求めて訴訟に及んだのである。

この訴えは、地方裁判所で却下されたが、そこの教育委員会では、教員や生徒の意見を聞いたところ「西暦の方がいい」という結果を得たと称して、平成七年(一九九五)から全市内の小・中学校で卒業証書は「西暦(元号)」の形に改めている。

しかし、訴えた卒業生は、それでも納得せず、西暦のみの表記を主張して、併記の証書すら受け取らない、と報じられている(平成八年八月日本教師会講演「日本の伝統と学校教育」、拙著『国旗・国歌と日本の教育』モラロジー研究所収録)。

四、「西暦」一本化の論議と問題点

そこで、もし年次表記に元号を止めて西暦のみを用いることにすることは、果たして妥当か。その場合、どんなことが問題になるか、あらためて考える必要があろう。

これには先人の重要な記録が残っている。最近、それを発見し紹介した清水節氏(金沢工業大学准教授)の力作「CIE宗教課カンファレンスレポートの研究(その一)」(同大学『日本学研究』第二十一号、本年三月発行)によれば、次の通りである。

GHQのCIE(民間情報教育局)宗教課では、占領目的に沿った諸改革を、巧みに日本側(政府・国会など)で進めさせ、直接間接の助言監督を続けていた。昭和二十三年(一九四八)の七月七日、そこへ訪ねてきた参議院文部委員会専門員の岩村忍氏(四十二歳)が「個人の意見として、元号(一世一元の制)を廃止し、より理に適った年代計算法を法律で確立させるのが良いと考えている。多くの国会議員も同じように考えており、山本勇造や羽仁五郎のようなリベラルな政治家は、そのような法案が次の国会で提出されれば、大変に喜ぶだろう。しかし、法案を可決させるには、SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の援助が必要である」と申し出ている。

それに対してW・K・バンス宗教課長が、「その変更には大きな困難を生じるだろう。多くの人々から、キリスト紀元(AD・BC)は、日本にとって、ほとんど意義が無いとの主張がなされるであろう。またAD六二二にムハンマドがメッカからメディナへ聖遷したことが、イスラム暦の紀年となったことを指摘し、神武天皇が即位したBC六六〇を紀年として、来年を一九四九年ではなく二六〇九年とするべきだ、と煽動する者が出てくるだろう。この問題は、民政局と協議する価値がある」と慎重に答えている。

とはいえ、このバンス自身、「元号は年代表記法として非常に不合理である。また、それは日本的宇宙をあまりに皇室を中心として築きすぎる傾向がある」と考えていたから、この年にも翌二十四年十月にも、「参議院文部委員会で「一世一元の制」廃止を取り上げるよう提案している。

それを待ち望んでいた岩村氏によれば、早速に参議院文部委員会は「一世一元の制」廃止の可能性を調査するよう決定したこと、また日本人研究者から多くの支持を得ていること、などについてCIEに報告した。するとバンス課長から、「元号を廃止するかどうかは、日本政府の自由であるが、廃止する方が、ほとんどの日本人にとって理に適った妥当な処置となるだろう」と、その「実行を激励」したという(Bunce, Abolition of Nengo(年号), 17. November 1949)。

これは、私にとって甚だショックな事実である。旧著以来つい最近まで、元号廃止論議は、GHQの要請に呼応した参議院文部委員会の田中耕太郎委員長らによるものと考えてきたからである。しかし真相は、日本側からの提案と「援助」要請により始まったことになる。

事実、翌二十五年(一九五〇)の二月二十三日と三月二日・七日の三回、参議院の文部委員会で行われた「元号に関する調査」へ招く各界有識者の人選は、岩村氏のもとで進められた。その陳述された内容は、「元号廃止」について、賛成十四人、反対五人、明言せず八人で、始まる前から結論ありきの振り分けとなっている。

五、元号存続に尽力された坂本太郎博士

しかし、このような状況下でも、敢然と元号(年号)存続の意義を明確に主張されたのが、東京大学教授の坂本太郎博士(四十八歳)である。詳しくは第七回国会「参議院文部委員会会議録」第八号(昭和二十五年三月二日)を参照されたい(WEB公開)が、要点は左の通りである。

「年号というものは、独立国の象徴であるという意義を重視いたしまして、(当時は被占領下ながら)せめてこのようなことにでも独立国の形を保っていきたい。…(独自の)年号を立てるということは…文化水準の表示でもあったわけであります。…」

「単に便利であるとか不便であるとか、こういう理由だけで…名分上非常な意義をもっておるものを廃止するということ…は、歴史に対する余りに大きな無知を示すものであります。…」

「西暦は儼として存在しておるものでありますから…今後も誰でも使うことができる…けれども、年号は一旦廃止すれば、もはや我々はこれを使うことができないと考えるのであります。…」

このような元号存続論は、他にも吉村正早稲田大学教授や鷹司信輔神社本庁統理、馬場恒吾新聞協会会長などにより述べられたが、大勢は廃止論に傾いていた。しかし、三月初め「朝日新聞」の発表した世論調査では、「西暦採用」に賛成25%、反対47%(わからない28%)であり、また、保守的な自由党の反対により、政府は三月末、「法案の国会提出を断念」するに至った。その過程で、坂本博士の堂々たる正論が果たした役割は、決して少なくないと思われる。

なお、昭和五十四年(一九七九)四月、「元号法」案の審議中、坂本博士(六十八歳)は衆議院内閣委員会に参考人として招かれた際も、「元号は、現憲法の定める象徴天皇制下において、天皇と国民とを結ぶきずなとして、最も適当な制度であると考える。…今日におきましても、日本文化の中心、日本の道義の中心として天皇を仰ぐのが、大多数の国民の心理である…元号は、新天皇が国家の繁栄、国民の幸福を祈念する心を体して(政府の政令により)定められるはずのものであり…(一世一元の)元号は、天皇との深い関係を持ってこそ意義がある…」ことを、堂々と述べておられる。

六、史実と世論に沿った良識の尊重

今や日本にしかない元号制度は、約千三百年前の「大宝令」(七〇一年完成)で「およそ公文に年を記すべくんば、皆年号を用ゐよ」と定められて以来、戦後も「元号法」という明確な法的根拠に基づいて現存する(西暦には明文上の法的根拠がない)。

そのためか、今朝(三月五日)の「朝日新聞」(連載「平成と天皇」5「元号を追う」)によれば、「昨年七月に行った世論調査で、元号について『今後も続けていく方がよいか』と尋ねたところ、『続けていく方がよい』は75%で、『そうは思わない』の15%を大きく上回った」という。

そうであれば、少なくとも公的な文書の年次表記は、元号を尊重し優先するのが、当然の良識ではないかと思われる。もちろん、日常的に西暦を専用ないし併用することは自由であり、その方が便利な時は私もそうしている。

ただ、その記事の末尾に東大史料編纂所の著名な教授(専門は「歴史社会学」とある)が、「元号の使用は宮中などに限られ、庶民に広く伝わるようになったのは、江戸幕府がお触れを出すようになってからだ」とか、「庶民が元号を優先的に使った時代は、実はほとんどありません」とコメントされているのには、呆れ返るほかない。

ここにいう「庶民」はどんな人々か定義にもよるが、奈良時代に各地から都へ送られてきた荷札の木簡でも、また平安時代に僧侶等が写した経典の奥書などでも、さらに室町時代に農民が起した一揆の訴状や東国に多い板碑などでも、しっかりと「元号を優先的に使っている」ことは、高校の教科書を見ても明白なことである。これらの史実を何故無視されるのだろうか。〔平成三十年(二〇一八)三月五日夕〕

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)