明治の即位式と改元の画期的な意義



明治の即位式と改元の画期的な意義

所   功

 今年は「明治」と改元されてから満一五〇年、というだけでなく、明治天皇の御即位式が挙行されてから満一五〇年にあたる。それは我が国の近代史上、どのような意義をもつ出来事であったかを、あらためて見直し、今後の在り方を考えるよすがともしたい。

   一 「大政奉還」と「五箇条の御誓文」
 幕末の嘉永五年(一八五二)、京都御所に隣接する中山忠能邸で誕生された祐宮(さちのみや)睦仁(むつひと)親王は、父帝孝明天皇が満三十五歳で急逝されてから半月後の慶応三年(一八六七)一月、第一二二代天皇として践祚された。満十四歳四ヶ月の少年天子である。
 この当時、孝明天皇の幕府に対する毅然とした御対応によって、朝廷の政治的な威信は一段と高まった。折しも第十五代将軍徳川慶喜は、長らく朝廷から委任されてきた大政の奉還を上奏した。それが直ちに勅許されたのは、慶応三年の十月十五日、西暦一八六七年の新暦十一月十日である。
 後に大正四年(一九一五)と昭和三年(一九二八)の即位礼、および同二十七年(一九五二)に明仁親王(今上陛下)の「立太子礼」が、いずれも十一月十日に実施された。それは、大政奉還勅許のもつ重要性を考慮されてのことかと拝察される。
 その大政を担うことになった維新政府は、まず二ヶ月後に「王政復古の大号令」を出して、「諸事、神武創業の始に原(もと)」づく(原点から出直す)ことを宣言する。それと共に、慶応四年三月十四日(一八六八年四月六日)、「五箇条の御誓文」(新日本の国是)を明示した。
 これが「御誓文」と称されるのは、明治天皇(十五歳)が「朕躬(み)を以て衆に先んじ、天地神明に誓ひ、大いに斯(こ)の国是を定め、万民保全の道を立てんとす」と仰せられた、しかも、それを承った「公卿・諸侯等」が、「叡旨を奉戴し、死を誓ひ、黽勉(びんべん)従事…宸襟を安じ奉らん」ことを「奉対誓約」したからである。その自筆署名は、総数七六七名にものぼり、原本が京都御所に現存する。最近、その全文翻刻を拙著『「五箇条の御誓文」関係資料集成』(原書房「明治百年史叢書」)に収録した。
 これに署名した藩主は、ほとんど全国に及び、翌二年六月、薩長土肥が率先した「版籍奉還」(領地と領民を朝廷に返上)に賛同した。のみならず、さらに徹底した「廃藩置県」にも踏み切っている。それによって、天皇のもとに全国土と全国民が統合され、まさに近代国家日本が形作られてゆくのである。

   二 和風を創出した「御即位新式」
 もちろん、そのような統合が一挙に可能となったわけではない。御元服直後の若々しい天皇は、御誓文と一緒に「億兆の父母として…一身の艱難辛苦を問はず、親(みづか)ら四方を経営し…天下を高岳の安きに置かん」との雄大な抱負を御宸翰で示された。それを晴れやかな儀典で表わされたのが、慶応四年の八月二十七日(一八六八年の十月十二日)の御即位式にほかならない。
 それを後述の「改元」とあわせて構想したのは、議定兼輔相の岩倉具視(四十三歳)である。ついで五月下旬、神祇官副知事の亀井茲監(じかん)が「神国古典御考にて新規御登壇(即位)之御式」を作るようにとの内命を受けた。そのもとで「御即位新式取調御用掛」を拝命した神祇官判事の福羽美静は、八月下旬、次のような案を提示し採用されてゐる。
イ 幕末に焼失した高御座(たかみくら)を造り直す余裕がないため、簡素な「御帳台(みちょうだい)」を代りに用いる。
ロ 紫宸殿の南庭で、香を焼き天に告げるような唐風儀礼を止める一方、階段下に「大地国象」(地球儀)を置く。
ハ 天皇の装束は、唐風の套冕(こんべん)を止めて平安以来の冠と束帯(黄櫨染御袍〈こうろぜんのごほう〉)に代え、また派手な唐風の旛旗を廃して神式の「幣旗」(飾榊)を用いる。
ニ 参列者には、従来の公家関係者だけでなく、新政府の武家官人や諸藩主なども認める。
 すなわち、一方で「王政復古」の理念から、飛鳥・奈良時代より続いてきた唐風の装束や調度を一挙に退けて、純和風のものにしようとした。
 しかも他方では、「御誓文」にいう「智識を世界に求め、大いに皇基を振起」しようとして、水戸藩主徳川斉昭が孝明天皇に献上した大地球儀(直径約一m一〇㎝)を据えて「世界万邦を治めるといふ雄大な御気象を表は」そうとする新しい試みも行われた(ただ当日は雨模様のため、南方の承明門内に置かれた)。
 さらに、参列者として公家関係者たちだけに限らず、新たに武家出身者らも加えたのは、「御誓文」にいう「上下心を一つにして」「官武一途…各々其の志を遂げ」しめるためであったかと思われる。

   三 「君臣一体」を示す「一世一元」
 天皇と国民の関係を認識できるようにするため、それを空間的に表わすものが即位の儀式だとすれば、それを時間的に示すものが元号だといえよう。
 この元号(年号)は、皇極女帝の譲位により孝德天皇の即位直後(六四五年)「大化」と改元された。それが「大宝」(七〇一年)の律令法典で「およそ公文(くもん)に年を記すべくんば、皆年号を用ひよ」と明文化されて以来、武家全盛の中世・近世にも、天皇が勅定され、全国的に公用されてきた。
 しかし、幕末の孝明天皇朝まで、八十六代と北朝五代の千二百年近い間(当初半世紀近くは断続的)、いろいろな理由で二二六回(と北朝一七回)も改元された。そのため、一代平均で二~三回、一号平均五年ほどしか続いていない。
 それを初めて的確に批判したのは江戸前期の山崎闇斎(あんさい)(『本朝改元考』)である。また江戸後期には、大坂の中井竹山(『草芽危言』)や水戸の藤田幽谷(ゆうこく)(『建元論』)が、中国の明や清に倣って「一代一号」とするよう提言している。
 やがて、維新政府の岩倉具視は、慶応四年八月「改元の儀…御大礼後、直ちに行はれ」「御一代御一号の制に決定せられ」ること、また「年号の文字…聖上(天皇)親しく神意に伺ひ為され」ることを主張し、ほぼその通りに決定された。
 そこで、御即位式から十二日目の九月八日(一八六八年の十月二十三日)前夜、明治天皇が京都御所の内侍所(賢所)で「御籤(みくじ)を抽(ひ)き、年号の字『明治』を聖択」されると、翌朝公布の改元詔書で「改元して海内の億兆と更始一新せんと欲す。それ慶応四年を改めて明治元年と為す。今より以後、旧制を革易して、一世一元、以て永式と為せ」と明示されたのである。
 これを承けて、明治二十二年(一八八九)欽定の『皇室典範』第十三条に「践祚の後元号を建て、一世の間に再び改めざること、明治元年の定制に従ふ」と確定されるに至った。それに基づき「大正」改元(一九一二年)も「昭和」改元(一九二六年)も実施されたのである。
 この改元詔書と同日に出された行政官布告は、戦後の被占領下で『皇室典範』が改変されてからも、「一世一元」の根拠とされてきた。
 また改元日を新暦に直した「十月二十三日」は重要な意味をもつ。たとえば、昭和四十三年(一九六八)の当日「明治百年記念式典」(政府主催)が行われ、また今秋の当日も「明治百五十年記念式典」(政府主催)が予定されている。

   四 「明治百五十年」から学ぶ手懸り
 以上、一五〇年前の御即位式と改元が実施された経緯を辿り、それが明治維新の理念を具現するにふさわしい画期的な意味をもつ所以に論及してきた。しかし、率直な感想を申せば、政官民いずれも、明治維新への関心が、五〇年ほど前より低いのではないか。
 昭和三十年代から四十年代には、いわゆる天皇制を非難し否定しようとする勢力の運動が激しかった。それに危機感を懐く人々は、天皇(皇室)を中心とする国柄を何とか護ろうとの切実な思いから、「建国記念の日」や「元号法」の制定などに向けて、さまざまな形で力を尽くした。その延長線上で、「平成」の改元も一連の平成大礼も、伝統を尊重しながら新味を加へて実施されたことは、まことに喜ばしい。
 けれども、平成の終わりに近い今日、社会一般に本質的な緊張感が薄れる反面、感情的な不満や不安が益々広がりつつある。しかし、現実を直視すれば、幕末に優るとも劣らない多様な危機が随所に溢れてゐる。
 そうであれば、今こそ一五〇年ほど前に内憂外患を克服して「君臣一体」の近代国家を作りあげた先人たちの事績から学ぶべきことは、きわめて多いはずである。
ちなみに、喜寿の私でも、自分なりにできることがないかと思い、数年前から取り組んできたことがある。その一つは近代(明治・大正・昭和)の大礼(即位礼・大嘗祭・改元)関係の基本史料を集大成して解説を加えることである(国書刊行会から八月中に出版)。
 いま一つは、昨年秋から明治神宮文化館で実施した明治大礼の展覧会に続いて、今秋九月に平安神宮近くの細見美術館などで、大正と昭和に実現された「京都の御大礼」展覧会を、有志多数に協力をえて開催する。
 ともに日本歴史の一研究者として「明治百五十年」の歩みを、主要な史資料に基づいて確かめながら、来年に予定されている皇位継承の儀式・祭祀および改元などの在り方を、みんなで考えてもらう手懸りになることを念じている。

(平成三十年八月二十日稿)
〔京都産業大学名誉教授・モラロジー研究所教授〕

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