「皇室関係の基礎知識」



今春4月以来、HPミカド文庫(http://mikado-bunko.jp/)で「皇室関係の基礎知識」シリーズが連載中です。
4月から6月までの3か月分(9回分)を、以下にまとめて転載いたします。

後藤真生

「ミカド文庫」定期更新再開のごあいさつ

 昨年5月以来の皇位継承儀礼が滞りなく行われ、本日から「令和」最初の新年度を迎えました。ただ、今や新型コロナウイルスの影響により、世界各地が未曽有の非常事態に直面しています。
 しかし、このような時こそ、さまざまな国難を君民一体で乗り越えてきた日本古来の在り方を見直し、「麗しい和の精神」に充ちた令和の日本づくりに、少しでも貢献したいと思います。
 そこで本日より、この「ミカド文庫」を毎月1日・11日・21日に更新し、主に「皇室関係の基礎知識」を連載して参ります。
 最初の①は所客員教授の執筆ですが、②以降は後藤助手が担当します。もしご高覧くださり、ご意見をお寄せいただけたら幸いです。

令和2年(2020)4月1日    伝統文化研究室 室長 橋本富太郎

①「旬祭」(毎月一日・十一日・二十一日)
 皇室では、毎月3回および毎日早朝、ずっと続けられている祭があります。
 その一つは、毎月の一日・十一日・二十一日に宮中三殿で行われる「旬祭」です。この名称は明治五年(一八七二)に定められ、翌年(一八七三)以来の次第が今も基本的に受け継がれています。
 毎月三回のうち、一日の旬祭は、直衣(のうし)を着けられた天皇ご自身が、午前八時から三殿を巡拝されます(ただ正月元日は四方拝と歳旦祭)。十一日と二十一日の旬祭は、侍従が代拝し、天皇・皇后両陛下は御所で慎まれます。
 高齢化により、昭和天皇の晩年、および平成の天皇も平成二十一年(二○○九)から、一日の旬祭に出御されたのは、五月と十月のみです。まだお若い今上陛下(六十歳)は、昨年の践祚以来、原則として毎月一日の旬祭に親拝しておられます。
 なお、毎年元日早々に行われる「元旦四方拝」は、その起源も内容も全く異なります(→ミカド文庫「皇室関係の用語辞典」の「四方拝」参照)。
 もう一つは、毎日繰り返されている「毎朝御代拝」です。午前八時、賢所と皇霊殿には内掌典(女性)、また神殿には掌典(男性)が、それぞれ日供(供米など)を献進しますと、当直の侍従が参進して、三殿の南階下から代拝します。
 これは平安時代の前期に宇多天皇が始められた毎朝四方拝に由来します。明治四年(一八七一)の「四時祭典定則」から「日々御代拝」となりました。その際、天皇・皇后両陛下は御所でお慎みをされています。

(所  功)

【参考文献】(敬称略)
・皇室事典編集委員会編『皇室事典 令和版』(KADOKAWA、令和元年)
・宮内庁HP「宮中祭祀」(https://www.kunaicho.go.jp/about/gokomu/kyuchu/saishi/saishi.html

②「神武天皇祭」(四月三日)
 神武天皇の崩御を追悼する祭である。崩御相当日(旧暦:三月十一日、新暦:四月三日)に、宮中三殿の皇霊殿で行われる。
 当日の朝、皇霊殿に御饌が供えられ、黄櫨染御袍をお召しになった天皇陛下は、御玉串を奉り拝礼され、御告文を奏上される。ついで、皇后陛下や皇太子殿下・同妃殿下が玉串を奉って拝礼された後、庭上の皇族方や参列者の拝礼がある。その後、「東游」という特別な歌舞や、皇霊殿御神楽が奏される。
 また、奈良県橿原市の畝傍山東北陵(神武天皇山陵)へ、侍従か掌典が勅使として遣わされる。そこでは当日、「皇室祭祀令」にみられる「山陵に奉幣の儀」が執り行われ、これには、地元の関係者も参列する。
 令和二年四月三日の神武天皇祭は、天皇陛下が、皇霊殿で「神武天皇祭皇霊殿の儀」と「皇霊殿御神楽の儀」を執り行われた後、夕方に皇居を出られ、赤坂の御所で「皇霊殿御神楽の儀」の終わる夜中まで、皇后陛下と御一緒に「慎み深く過ごされた」(産経ニュース「【皇室ウイークリー】(636)陛下、マスク姿で皇居ご訪問 ご即位で福祉事業に寄付金」(https://www.sankei.com/life/news/200410/lif2004100001-n1.html)参照)。
【コラム】「全国植樹祭」の先蹤となった「愛林日」
 神武天皇祭の行われる四月三日は、全国植樹行事と縁が深い。昭和八年に四月三日を「愛林日」とされてから毎年、この日に全国で植樹活動が行われていた。その後、先の大戦中に多くの森林が失われたので、戦後間もなく設立された「森林愛護連盟」や「国土緑化推進委員会」が、昭和二十五年、初の「全国植樹祭」を山梨県で開催した。それ以降、「全国植樹祭」は、毎年の公式行事として、天皇・皇后両陛下の御臨席を仰ぎ、全国都道府県の持ち回りにより開催され、現在に至っている。
 ただ、今年(令和二年)五月三十一日に島根県で予定されていた第七十一回の諸行事は、新型コロナウイルスの影響で、来年(令和三年)に延期された。

(後藤真生)

【参考文献】(敬称略)
・所功著『「国民の祝日」の由来がわかる小事典』(PHP研究所、平成十五年)、同『天皇の「まつりごと」―象徴としての祭祀と公務』(日本放送出版協会、平成二十一年)
・皇室事典編集委員会編『皇室事典 令和版』(KADOKAWA、令和元年)
・「聖上 皇霊殿に出御 神武天皇祭を御親祭」『神社新報』(神社新報社、令和二年四月十三日号)

③「昭和の日」(4月29日)
 昭和天皇がお生れになった日。「国民の祝日に関する法律」(以下「祝日法」)によれば、「激動の日々を経て復興を遂げた昭和の日々を顧み、国の将来に思いをいたす日」である。すなわち、昭和天皇の御遺徳を仰ぎ、昭和の歴史を回想するにふさわしい記念日である。
 明治34年(1901)の4月29日に誕生された裕仁親王は、大正天皇の崩御(12月25日)により践祚され、翌昭和2年(1927)からこの日が「天長節」となった。それが、戦後の昭和23年(1948)から「天皇誕生日」と改称された。ついで、同64年(1989)1月7日の崩御後まもなく「みどりの日」となり、やがて平成17年(2004)から「昭和の日」と改称された。
【コラム】昭和天皇の大御歌
 昭和天皇の御遺徳を偲ぶには、縁の品々が展示されている東京都立川市の「昭和天皇記念館」を訪ねることもよい。また、宮内庁編『昭和天皇実録』など、公刊された書籍を通じて、各時期の御動静を知ることができる。
 昭和天皇は、天皇として常に国家・国民のことを心に懸けられながら、御公務の合間に生物学の研究に励まれ、さらに和歌もよくお詠みになった。御生涯のうちに詠まれた御歌の数は、岡野弘彦氏によれば、約一万首にのぼるという。
 その御歌の多くは、平成2年(1990)に公刊された宮内庁侍従職編『おほうなばら 昭和天皇御製集』などにより、すでに世に知られていた。しかも、平成31年元日、朝日新聞の朝刊一面に、新たに晩年の御製252首が発見されたと報じられた。新発見の「直筆原稿」に詠まれた御製は、その解読に尽力した所功博士の編著『昭和天皇の大御歌 一首に込められた深き想い』(同年、角川書店)に収められている。
 この直筆草稿は、長らく昭和天皇の側近(内舎人)として仕えられた牧野名助氏が保管しておられた。それは最晩年(昭和60~63年)の遺詠250首以上にのぼる。前二書により千首近い御製を拝誦すれば、昭和天皇が国家・国民や動植物など、実に様々なことについての御歌に、深い御気持ちを詠み込まれたことが窺える。

(後藤真生)

【参考文献】(敬称略)
・所功著『「国民の祝日」の由来がわかる小事典』(PHP研究所、平成15年)、同編著『昭和天皇の大御歌 一首に込められた深き想い』(角川書店、平成31年)
・皇室事典編集委員会編『皇室事典 令和版』(KADOKAWA、令和元年)
・「昭和天皇 直筆原稿見つかる 晩年の歌252首 推敲の跡も」(『朝日新聞』平成31年元日および3日・7日朝刊)
・「昭和天皇の日常 触れた20年 直筆原稿寄贈 牧野さん」(『朝日新聞』令和元年9月5日朝刊)

④「こどもの日」(5月5日)
 「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」(「国民の祝日に関する法律」(以下、「祝日法」)による)。
 5月5日は、古来、五節句のうち「端午の節句」として日本人になじみ深い日である。五節句は、古く中国から伝来したもので、「大宝・養老令」(701年制定・718年改定)には「節日」としてみえる。
 そのうち、3月3日と5月5日は、日本では女児の雛祭や男児の節句など、子供の祝い日とされてきた。昭和23年成立の「祝日法」に、5月5日が新しく「こどもの日」と定められた。これが単なる子供の祝い日ではなく、「母に感謝する」日と明文化されたことは、まことに意義深い。
 ちなみに、わが国では縄文時代から土偶などに見られるとおり、子供を産み育てる母親・母性に対する敬愛・崇拝の風習が根強い。この「母」という漢字は、女に乳房の「﹅﹅」を加えた形である。それを「はは」と訓む例は『万葉集』にも多くみえるが、『和名抄』の引く「日本紀私記」には「母、以路波(いろは)」とあり(イロは接頭語でイロハは生母の意)、たとえば「神武天皇即位前紀」の記す「母を玉依姫といふ」の「母」に「イロハ」の古訓がみえる。
【コラム】昭和天皇が母君(貞明皇后)を詠まれた大御歌
 昭和天皇の御製中、母后の貞明皇后(明治17年~昭和26年)に関して詠まれた大御歌を、宮内庁編『昭和天皇実録』(東京書籍)の記事と共に抄出する。

①冬すぎて菊桜さく春になれど母の姿をえ見ぬかなしさ
昭和27年(1952)4月28日 月曜日(51歳)/この日、現地時間午前八時三十分〔日本時間、午後十時三十分〕米国ワシントン市において同国の「日本国との平和条約」(対日平和条約)批准書が寄託される。これにより日本国と連合国との戦争状態は終了し、連合国により日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権が承認される。
②ありし日の母の旅路をしのぶかなゆふべさびしき上の山にて
昭和27年(1952)10月21日 火曜日/(宮城県)御泊所松島パークホテル御出発に先立ち、当初の御予定になかったものの観瀾亭にお出ましになり、松島湾を御展望になる。
③たらちねの母の好みしつはぶきはこの海の辺に花咲きにほふ(題「伊豆西海岸堂ヶ島」)
昭和29年11月7日 日曜日(53歳)/(静岡県行幸中、賀茂郡今井浜の御泊所を御出発の後)賀茂郡仁科村堂ヶ島の松永別邸(安左エ門)一日庵において御昼食を召し上がる。
④母宮のゆかりも深きたくみ場に入りてつぶさに紙つくり見る
昭和32年(1957)10月29日 火曜日(56歳)/(静岡県吉原市)大昭和製紙株式会社鈴川工場を御視察になり、昭和二十三年四月十日の貞明皇后行啓の際、工務部の東側に立つパルプ工場の屋上に上られた旨を斉藤社長よりお聞きになる。
⑤母宮のふかきめぐみをおもひつつ老人たちの幸いのるかな
昭和33年(1958)4月14日 月曜日(57歳)/(熊本の)社会福祉法人リデル・ライト記念養老院を御訪問になる。藤楓協会(癩予防協会)常務理事浜野規矩雄の説明により貞明皇后がハンセン病患者に寄せてお詠みになった歌碑を御覧の後、社会福祉事業功労者及び同院収容者に御会釈を賜い、男女各一室ずつの収容室に進まれ、収容者を御慰問になる。
また、玄関外において、同院の母体となった熊本回春病院の創設者故ハンナ・リデルが大正十三年(一九二四)に御成婚記念として設置した日時計を御覧になる。

(後藤真生)

【参考文献】(敬称略)
・所功著『「国民の祝日」の由来がわかる小事典』(PHP研究所、平成15年)、同編著『昭和天皇の大御歌―一首に込められた深き想い』(角川書店、平成31年)
・宮内庁編『昭和天皇実録』全十九冊(索引一冊を含む)(東京書籍、平成27~31年完結)

⑤「三勅祭」
 勅祭とは、天皇陛下の思し召しにより勅使が差遣され奉幣が行われる祭祀である。数多い勅祭のうち、戦後(現在)は、賀茂別雷神社(上賀茂神社)・賀茂御祖神社(下鴨神社)の賀茂祭(5月15日)と、石清水八幡宮の石清水祭(9月15日)、春日大社の春日祭(3月13日)の三つは、特に「三勅祭」と称される。
 賀茂・石清水・春日の三社は、それぞれ朝廷より特別の尊崇を受けてきた名社である。ただ、右の三社以外にも例祭に勅使の派遣される勅祭社が16社ある。
そのうち、伊勢の神宮は別格であり、9月の神嘗祭と6月・12月の月次祭など、年に5回勅使が差遣されている。また、例えば九州の宇佐神宮には十年ごとに奉幣が行われている。
【コラム】賀茂祭(葵祭)
 三勅祭の一つである賀茂祭は、一般に「葵祭」とも称される。5月15日に京都御所から下鴨神社と上賀茂神社へ一大行列が向かう。
 賀茂祭は、欽明天皇の御代(6世紀中頃)に始まったとされる。平安前期(9世紀初頭)から勅祭となり、斎王の参向列も加わった。
 本祭は、応仁の乱以後、中絶状態となった(ただし、社頭における祭典は励行された)。やがて、江戸時代に朝廷の儀式や神社の祭儀などを復興しようという動きが出て、熱心な神職らが朝廷や幕府に働きかけ、元禄7年(1694)、約2百年ぶりに再興されている。

(後藤真生)

【参考文献】(敬称略)
・所功著『京都の三大祭』(角川学芸出版、平成8年)、同著『天皇の「まつりごと」―象徴としての祭祀と公務』(日本放送出版協会、平成21年)、同編著『光格天皇関係絵図集成』(国書刊行会、令和2年)
・皇室事典編集委員会編『皇室事典 令和版』(KADOKAWA、令和元年)

⑥「皇后陛下の御養蚕」
 宮中の御養蚕は、明治以降の皇后陛下により継承され、皇居内の紅葉山御養蚕所で行われている。皇后陛下は、通常、4月末から6月末までの約2ヶ月間にわたり、「御養蚕始の儀」や御給桑・上蔟・初繭掻き・「御養蚕納の儀」など一連の諸行事に取り組まれる。
 日本における養蚕は長い歴史を有する。『古事記』『日本書紀』によれば、雄略天皇など歴代の天皇が蚕業を御奨励になったことが知られる。『万葉集』には、孝謙天皇が養蚕豊作を願われたことを詠んだ大伴家持の歌が見える(巻20、4493)。
 やがて明治の昭憲皇后が殖産興業に御心を寄せられ、明治4年(1871)、率先して養蚕を始め養蚕や製糸業を奨励された。それ以後、貞明皇后・香淳皇后・上皇后陛下から皇后陛下へと継承されている。
 今年(令和2年)は、新型コロナウイルスの影響により養蚕担当者の数が減らされ、日本の古来種「小石丸」だけが飼育されている。5月11日、「御養蚕始の儀」が執り行われ、皇后陛下は、孵化したばかりの蚕を羽箒で蚕座に移す「掃立て」を行われた。この後3週間ほど、桑摘みと、蚕に桑を与える「給桑」が続けられる。
【コラム】国産種「小石丸」による正倉院染織品の復元
 宮中で飼育されてきた数種の蚕のうち、日本の古来種「小石丸」は、良質な糸を出すが、繭が小さく収量も少ない。そのため、明治後半以降、民間においては日中交雑種や中欧交雑種による蚕糸業が盛んになり、昭和10年代、御養蚕所における総生産の約10分の1程度にまで減らされ、昭和60年代には、廃棄に備え繭や糸の標本づくりなども行われていた。
 ところが、平成2年(1990)に御養蚕を引き継がれた皇后陛下は、小石丸の飼育を継続された。当時、「日本の純粋種と聞いており、繭の形が愛らしく糸が繊細でとても美しい。もうしばらく古いものを残しておきたいので、小石丸を育ててみましょう」と言われている。
 一方、奈良の正倉院では、平成5年(1993)から正倉院の絹織物を10年かけて復元することになった。その際、国内では稀な小石丸の飼育が宮中で続けられていることを知った正倉院事務所から、繭の下賜願いが出された。その翌年から従来の約7倍もの増産が行われ、以後10年間で、合計400kg以上の生繭が贈られている。そのおかげで、千二百年以上も前の御宝物が見事に復元されたのである。

(後藤真生)

【参考文献】(敬称略)
・小平美香著『昭憲皇太后からたどる近代』(ぺりかん社、平成26年)
・扶桑社編著・宮内庁協力『皇后さまとご養蚕』(扶桑社、平成28年)
・所功著『天皇の「まつりごと」―象徴としての祭祀と公務』(日本放送出版協会、平成21年)、「『昭憲皇太后実録』に見る皇后の知育・徳育」(『モラロジー研究』74号、平成27年)
・「皇后さま、御養蚕始の儀ご出席」(『産経新聞』令和2年5月12日朝刊)

⑦「生物学御研究所」
 昭和3年(1928)、皇居吹上御苑の東南に設けられた昭和天皇の研究施設(略称「生研」)。鉄筋(一部木造)2階建ての本館(1420㎡)と、標本を納める付属棟(315㎡)から成る。立川市の昭和天皇記念館に生研の御研究室が復元されている。
 昭和天皇は、お若いころから動植物を分類する分類学の研究(特に、変形菌類とヒドロゾアの分類)に取り組まれ、週3回生研に通われたという。赤坂離宮や那須御用邸などで個体を採取し標本(6万3000点)として保存され、御公務の合間に御研究を続けられた。
 その御研究には、富山一郎氏(侍従職御用掛・元東京大学助教授・魚類分類学専攻)や酒井恒氏(元横浜国立大学教授・甲殻類研究者)、原寛氏(東京大学名誉教授・植物分類学者)などが、長年にわたり奉仕した。この人々の逝去を悼まれた御製が所功博士編著『昭和天皇の大御歌』に見え、例えば次の一首は、晩年の草稿から発見されたものである(補章37番)。
(酒井恒氏の逝去に際して。昭和61年)
 幾年もかにのしらべにつくしたるはかせきえしはなみだなるらん
【コラム】上皇陛下のハゼ研究
 上皇陛下も、父君の昭和天皇と同様、御公務の合間に、生物の分類研究に努められてきた。
 平成19年(2007)5月、リンネ生誕300年の記念行事がスウェーデンとイギリスで催された際、公式に招かれた天皇陛下は英語で基調講演をされた。その主席随員を務めた野依良治博士によれば、これを聴いた世界の科学者たちが、日本の天皇は素晴らしい科学者であり、そのような天皇を戴く日本はなんと素晴らしい国かと絶賛したという。御講演の内容は、宮内庁侍従職編『天皇陛下 科学を語る』(朝日新聞出版、平成21年)や宮内庁編『道 天皇陛下御即位三十年記念記録集』(NHK出版、平成31年)に掲載されている。
 この御講演によれば、日本の分類学も進展し、日本産の種子植物・シダ植物・魚類を除く脊椎動物には、すべて学名が付けられているが、魚類(特にハゼ亜目魚類)には、学名の付いていないものが多い。
 上皇陛下は、ハゼ亜目魚類について、形態に注目した分類学的研究を進め、頭部孔器の配列による分類を試みて、昭和42年(1967)、『魚類学雑誌』に御論文を発表された。そこで行われた孔器の配列による分類が、今ではハゼ亜目魚類分類の中心になっている。最近は、電子顕微鏡を使った分子生物学(DNA分析による分子レベルでの分類研究)にも努められている。

(後藤真生)

【参考文献】(敬称略)
・所功著『天皇の「まつりごと」―象徴としての祭祀と公務』(日本放送出版協会、平成21年)、同著『皇室に学ぶ徳育』(モラロジー研究所、平成24年)、同監修『初心者にもわかる昭和天皇』(メディアックス、平成25年)、同編著『昭和天皇の大御歌』(角川書店、平成31年)
・伊東俊太郎「天皇陛下と学問」(『文藝春秋』平成11年10月号)
・宮内庁編『道 天皇陛下御即位三十年記念記録集 平成二十一年~平成三十一年』NHK出版、平成31年)
・宮内庁三の丸尚蔵館編『御製・御歌でたどる両陛下の30年』(菊葉文化協会、平成31年)

⑧「皇太子御成婚」
 皇太子徳仁親王(今上陛下)の御成婚は、平成5年(1993)の6月9日に行われた。その婚儀は、皇太子明仁親王(上皇陛下)の時(昭和34年)と同様、明治以来の『皇室婚嫁令』に準拠している。
 『皇室婚嫁令』(のち『皇室親族令』所収)は、明治32年(1899)の末、翌年に予定された皇太子嘉仁親王(のち大正天皇)の御成婚に先立って勅定公布された。これは、平安時代以来の宮廷公家社会における和風と、鎌倉時代以降の武家社会における儒風と、近代的な洋風とを組み合わせて成文化された。その「皇太子成婚式」を「前儀」・「本儀」・「後儀」に分けて記せば、左の通りである(所功博士著『皇室の伝統と日本文化』より)。

前儀/①賢所・皇霊殿・神殿に成約奉告の儀 ②神宮・山陵に勅使発遣の儀、奉幣の儀 ③納采の儀(命納采使・妃氏本第の儀) ④勲章(宝冠章)を賜ふの儀、贈劔の儀 ⑤告期の儀(命告期使・妃氏本第の儀) ⑥贈書の儀(御書使の儀)
本儀/⑦賢所・皇霊殿・神殿に結婚奉告(告成婚)の儀 ⑧妃氏入宮の儀、皇太子本宮参入の儀 ⑨賢所大前(成婚礼)の儀 ⑩皇霊殿・神殿に謁する(拝礼)の儀 ⑪参内朝見(拝謁)の儀、皇太后に朝見(行啓)の儀 ⑫供膳の儀
後儀/⑬(供)三箇夜餅の儀 ⑭(成婚後)宮中饗宴の儀 ⑮神宮・山陵(神武天皇山陵並びに先帝・先后の山陵)に謁する(行啓)の儀

 このように、「賢所大前の儀」を明文化したことにより、いわゆる神前結婚式となっている。昭和34年(1959)と平成5年(1993)の皇太子御成婚も、「賢所大前の儀」を「国の儀式」とみなして執り行われた。
【コラム】天皇晴れ(エンペラーウェザー)
 戦後、昭和21年(1946)以来の国民体育大会開会式や、昭和39年(1964)10月10日の東京オリンピックの開会式(および閉会式)など、昭和天皇がお出ましになると、見事な快晴に恵まれ、「天皇晴れ」といわれた。
 また昭和46年(1971)9月27日から10月14日まで御訪欧の往路、米国の要請でアラスカへ立ち寄られた際にも、雨が急に晴れて、「エンペラーウェザー」と報道された(なお、その際の御製がある)。
 さらに今上陛下が皇太子として御成婚の日(平成5年6月9日)、前夜来の雨が小降りになって午後4時頃に止み、皇居二重橋上空の雲間から太陽が現れた。そのおかげでパレードも盛大に行われ、多くの人々が、両殿下の御成婚をお祝いできた。
 しかも昨年(令和元年)10月22日、「即位礼正殿の儀」が執り行われた際も、午前中に降っていた雨が午後1時頃に止み、雲間から青空が見え、レインボーブリッジなどに虹が架かった。これらは偶然の現象かもしれないが、古来これを、天の神々が皇室の慶事を悦び、めでたい祥瑞(天瑞)を現す吉兆と信じられてきた。

(後藤真生)

【参考文献】(敬称略)
・所功著『皇室の伝統と日本文化』(モラロジー研究所、平成8年)、同著『「国民の祝日」の由来がわかる小事典』(PHP研究所、平成15年)、同著『天皇の「まつりごと」』(日本放送出版協会、平成21年)、同編著『昭和天皇の大御歌』(角川書店、平成31年)
・宮内庁編『昭和天皇実録』全十九冊(索引一冊を含む)(東京書籍、平成27~31年完結)
・皇室事典編集委員会編『皇室事典 令和版』(KADOKAWA、令和元年)

⑨「大祓」
 宮中では、日本全体の罪・穢れを祓い清める「大祓」が、毎年6月と12月の晦日(30日)に執り行われる。これには、掌典長はじめ掌典職が奉仕する。
 大祓の古例は、『日本書紀』天武天皇10年(682)紀や大宝・養老の「神祇令」および『延喜式』(祝詞式)に見え、大昔から大々的に行われてきたが、応仁の乱の後、行われ難くなった。
 それが再興されたのは、明治4年(1871)からである。大祓当日、午後2時より3時まで、まず「節折の儀」が、皇居内の宮殿・正殿「竹の間」において行われる。これは、天皇陛下のための祓の儀式である。
 ついで、「大祓の儀」が午後3時に開始される。宮中三殿の西に建つ神嘉殿の南庭に、皇族および宮内庁・皇宮警察本部の職員などが着床すると、掌典職により祓や大祓詞の奏上などが行われる。
 なお、6月(あるいは7月)の末や12月の末には、伊勢の神宮をはじめ全国の神社などでも、大祓が恒例祭事となっており、茅の輪くぐりなどが行われる。
【コラム】神饌のマクワウリ
 6月30日、宮中三殿におかれては、内掌典により水無月の御神饌が供えられる。元内掌典の髙谷朝子氏によれば、そのなかに、白瓜、真桑瓜、茄子がある。
 このうち真桑瓜は瓜の一種で、各地において栽培されている。この「真桑」というのは、岐阜県真桑村(現本巣市)の地名で、当地の瓜が殊においしい。地元の伝説によれば、それを岐阜から上洛した織田信長が正親町天皇に献上したところ、6月の大祓に供えられることになったという。なお、皇居内では、今なお毎年専門の職員により栽培されている。
 平成30年10月、皇后陛下として最後のお誕生日に際し、天皇陛下の御譲位後になさりたいことの一つに、マクワウリ作りを挙げておられる。

「赤坂の広い庭のどこかによい土地を見つけ、マクワウリを作ってみたいと思っています。こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田の近くに一畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。頂いてもよろしいか陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げる物だからと仰せで、六月の大祓の日に用いられることを教えて下さいました。大変な瓜田に踏み入るところでした。それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました。」(宮内庁HPより)

(後藤真生)

【参考文献】(敬称略)
・髙谷朝子著『宮中賢所物語』(ビジネス社、平成18年→河出文庫、平成29年)
・所功著『天皇の「まつりごと」』(日本放送出版協会、平成21年)
・皇室事典編集委員会編『皇室事典 令和版』(KADOKAWA、令和元年)
・宮内庁HP「皇后陛下お誕生日に際し(平成30年)」(https://www.kunaicho.go.jp/page/kaiken/show/21)
・岐阜県農政部農産物流通課「まくわうり」(HP「岐阜の極み」http://gifu-kiwami.jp/products/765/)
・國學院大學伝統文化リサーチセンター「おはらいの文化史3 『延喜式』巻八」(http://www2.kokugakuin.ac.jp/kaihatsu/oharai/m_03.html)

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