講演記録「称徳女帝と和気清麻呂」



平成10年(1998)12月19日に護王神社・弘文院セミナーにて行われた所功氏による講演記録です。

『所功未刊論考デジタル集成』Ⅱ(6月刊行予定)に収録予定のものを先行して公開いたします。

称徳女帝と和気清麻呂

(京都産業大学教授)所  功

はじめに―平成十年を顧る―

いわゆる二〇世紀はあと二年少々、元号で申せば平成十年(一九九八)も残り二週間足らずとなりました。この一年を振り返ってみますと、大事なことがいろいろございました。

まず当社(護王神社)では、御祭神の和気清麻呂公と姉の広虫姫が同じ延暦十八年(七九九)に相ついで亡くなりましてから千二百年目にあたります。そこで、この十月十日に記念の祭典を行われ、私も参列させて頂きました。

また東京では、来秋に政府主催で「今上陛下御即位十年記念式典」が挙行されるに先立ち、この十一月二十八日に東京国際フォーラムで民間有志の奉祝集会があり、私も発起人の一人として参列しました。五年前に今上陛下は還暦(癸酉)を迎えられ、皇太子殿下も結婚されまして、各々公務に励んでおられます。

この集会で聴いたフランス国営放送チーフプロデューサーのオリヴィエ・ジェルマントマさんによる記念講演(十一月に『日本待望論』として刊行)は、まことに鋭い指摘が多く、いろいろ教えられました。

さらに私自身は、おもに講演記録を精選した旧著『歴史に学ぶ―日本文化の再発見―』が、この三月に講談社の学術文庫となりました(『日本歴史再考』)。とても学術の名に値しませんが、幸い好評で版を重ねております。もう一つは、この十月に創刊された文春新書の第一号として、高橋紘氏との共著『皇位継承』が刊行され、これも既に三版が出ております。

一 文春新書の共著『皇位継承』

この新書について少し説明を加えますと、近年の出版界では新書ブームが続いています。ご承知のとおり、文庫は一たん出て評価の高いものを軽装判としますが、新書はトレンディなテーマについて専門家の書きおろしを広く普及するものとされています。その新書出版に慎重であった文藝春秋社が、満を持して「文春新書」の創刊に踏み切ったのです。

しかも、その第一号として、白川編集長のもとで「皇位継承」がテーマに選ばれ、その執筆を友人の高橋紘さんが引き受けていました。この新企画に私も途中から参加することになったのです。

人生には不思議な出会いが少くありません。高橋さんは私と生年月日(昭和十六年十二月十二日)が全く同じ、というのも珍しいことです。彼は早稲田大学を卒業してから共同通信で宮内記者を務め、ジャーナリストの強みを活かした現代皇室の研究書を何冊も著しています。

その一つ『象徴天皇』(岩波新書)を彼が出した昭和六十二年(一九八七)に初めて会い、翌年から平成の初めにかけて色々な仕事を一緒にしました。とくに昭和天皇の御学友で長らく侍従などを務められた永積(旧姓大迫)寅彦さんの回想録『昭和天皇と私―お側に仕えて八十年―』(学習研究社)作成のお手伝いをさせてもらいました。

その高橋さんが「皇位継承」を引き受けたけれども、昭和・平成のことは書けるが、それ以前の歴史は私に書いてほしいと言ってきたのです。これは専門の古代・上代だけでなく、中世・近世から近代に至る「皇位継承」の歴史を勉強する好機と考え、半年あまり主力を注ぎました。

そこで、私は本書の第一章「万世一系」はいかに保たれたか、第二章「女帝出現の意味」、第三章「『皇室典範』の成り立ち」および「あとがき」を執筆しました。それに対して高橋さんは、序章「皇位継承の危機」よび第四章「御側女官の役割」・第五章「昭和天皇の苦悩」・第六章「新『皇室典範』のディレンマ」を書かれましたが、さすがプロ記者の文章は判り易く問題の指摘も明快です。

ただ、二人とも皇室の重要性には共通認識をもっていますが、その表記方法について見解を異にしています。私は皇室に関しては自然な敬語(敬体)を使い、また元号(年号)を用いるべきだと考えています。しかし彼は、現今のジャーナリストと同じく、敬語も元号もほとんど必要ないと言うのです。

そのため、しばらくギクシャクしましたが、結局編集長の裁量により、敬語は原則として用いないが、現在の天皇と皇族に関してなら所が使うことは構わないし、また元号に関しては原則として年号(西暦)の形とすることになりました。この二点は、その後の新聞・雑誌へのコメント・執筆にも同じ問答を繰り返しながら、できるだけ自分の考える常識的な表現方法をとるようにしております。

二 主題に関する近年の出版状況

さて、今日は「称徳女帝と和気清麻呂」を主題に掲げました。近ごろ「日本の天皇(皇室)は万世一系だ」と気楽に言う人が少くありません。それは天皇(皇室)を全面的に否定したり一方的に非難する論考の多かった戦後の二・三十年に較べれば、よい傾向のようにみえますが、その実態を精査すれば決して安易にいえることではありません。

たとえば、本日主題とした孝謙女帝が何故に二度も即位され、未婚のため後継者をどうされたのかを調べてみますと、ここで皇統が途切れた恐れも少くないのです。それゆえに、戦後の歴史学界でも、奈良時代史の一環として主題に関する研究は、着実に進められてきました。

そのうち、主要な人物の伝記研究としては、すでに昭和三十四年(一九五九)、関西大学教授の横田健一博士が『道鏡』を出され、ついで同三十八年、教科書調査官の村尾次郎博士が『桓武天皇』を著わされ、さらに同四十八年、東京女子大学教授の平野邦雄博士が『和気清麻呂』を纏められましたが、いずれも吉川弘文館の人物叢書です。

ちなみに、私はその人物叢書で『菅原道真』(昭和三十七年)を出された坂本太郎先生から推薦されて『三善清行』(同四十五年)を書かせて頂きました。そのころから、戦後流行した唯物史観による社会経済論で等閑視されてきた人物文化論への関心が高まり、それが今も続いています。

その流れを受けて、主題に関連する研究書が何冊も出ております。とりわけ平成に入るころから女性史の一環として女帝の研究も盛んになりました。そのうち、京都女子大学教授の瀧浪貞子さんが、つい最近『最後の女帝 孝謙天皇』(吉川弘文館、歴史文化ライブラリー)を著わされ、私にも贈って下さいましたので一気に通読しました。

いずれも実証的な研究成果が判り易く書きおろされており、大部分なるほどそうだと同感できます。ただ、一部には見解を異にする点もあり、その補正も兼ねて、以下に管見を申し上げたいと思います。

三 直系男子の中継ぎを務めた女帝

日本の御歴代は、神武天皇から今上陛下(現上皇)まで一二五代(他に北朝五代)を数えますが、そのうち八方十代は女帝(女性天皇)です。しかも、江戸時代の二方以外は、ほぼ七世紀から八世紀の飛鳥・奈良時代に集中しており、「女帝の世紀」とも称されています。

これらの女帝について、皇位は皇族男子が継ぐべきもので、然るべき成年男子がおられない場合、幼少男子の成長されるまで、いわば中継ぎとして即位されたにすぎない、という見方が一般に流行しています。一見そういうケースが多いことは確かです。さりとて中継ぎだから天皇としての治績が不十分とか不適切ではありません。むしろ、いわばリリーフですから、レギュラーよりも努力して、すぐれた治績をあげておられます。

それは、主題の孝謙=称徳女帝に至る数代の方々をみても明らかです。すなわち、第四〇代の天武天皇は、兄天智天皇の遺児大友皇子(弘文天皇)との争い(壬申の乱)に勝利して即位されましたが、それ以後の皇位継承を安定させるために長系男子による相続を原則にしようとされたようです。

そのため、次代は皇后(天智天皇の皇女)との間に生まれた草壁皇子を皇太子に立てられましたが、早く亡くなりました。そこで、皇子と従妹(天智天皇の皇女)との間に生まれた軽皇子が成長されるまでの間、皇太后が第四一代の持統女帝として中継ぎをされ、夫君の遺志を継いで律令制度を整え藤原京を造営するなど、多大な治績をあげておられます。

ついで、軽皇子が十五歳で第四二代の文武天皇として立たれましたが、二十五歳で亡くなりました。そのため、まだ数え八歳の首皇子が成長されるまでの間、祖母(草壁皇子の妃)と従姉(同上の皇女)が第四三代元明女帝・第四四代元正女帝として中継ぎをされました。この二代には平城京の造営や『日本書紀』の撰進などが行われています。

さらに、首皇子が二十五歳で第四五代の聖武天皇として即位され、光明皇后(藤原不比等の娘)と供に「天平文化」の盛代を実現されました。しかし、お二人の間に生まれた基王が満一歳未満で亡くなりました。

そこで、聖武天皇には夫人県犬養広刀自との間に安積親王など皇族男子がいたにも拘らず、天皇と皇后の直系を重視して、天平十年(七三八)、皇女の阿倍内親王(21歳)を初めて正式の皇太子に定められました。それから十一年後の天平勝宝元年(七四九)、父帝(49歳)の譲位により即位されたのが第四六代の孝謙女帝(32歳)にほかなりません。

このように天武天皇以降の皇位継承は、直系男子を原則としながらも、その継承者が幼少であれば成年後まで成長を待つ間、皇族女子(寡婦か未婚者)が次々女帝に立てられてきました。これは父系(男系)男子の継承を絶対視する古代中国ではありえないことです(唐代の武則天のみ唯一の例外ですが、実は晩年に女帝の地位を返上しましたから正式には皇后=則天武后と称されています)。

それが日本で可能になったのは、「男帝」だけでなく「女帝」も公認されていたからです。大宝元年(七〇一)に完成した「大宝令」の「継嗣令」には「皇親」(皇室の親族)の区別と範囲を定めています。その逸文に「およそ皇(天皇)の兄弟と皇子を親王と為す」という本文の原注〈本文と同等の効力をもつ〉に「女帝の子、亦同じ」と明記されています。

これは表面上、男子優先の表現により、天皇の兄弟・皇子を「親王」と為すとしながら、その兄弟に姉妹、皇子に皇女、親王に「内親王」を含んでおります。しかも、その本文を避けて原注に「女帝の子、亦同じ」という規定を加えたのは、男帝を優先しながら「女帝」も公認し、女帝が結婚して儲けられた子も「内親王」とすることまで容認していたからです。それゆえ、直系皇女の阿倍内親王は、庶子や傍系の男子をさしおいて、皇太子に立てられたうえで女帝となることができたのです。

四 孝謙天皇の譲位と称徳天皇の重祚

ただ、聖武天皇は、天平十七年(七四四)、病気で倒れ、五年後に四十九歳で譲位されてから、孝謙女帝の活躍を見守っておられました。そのもとで、光明皇太后の甥にあたる藤原仲麻呂が権勢を伸ばし、天平勝宝七歳(七五五)ライバルの左大臣橘諸兄を失脚させるに至りました。

その翌年(七五六)、上皇(56歳)は、崩御直前に、女帝(39歳)の後継者として傍流の道祖王(天武天皇の皇子新田部親王の男)を皇太子に定めておられます。ところが、それに承服しない仲麻呂は、長男真従の妻であった未亡人の粟田諸姉と再婚させた大炊王を自邸に住まわせ、翌年(七五七)強引に道祖王を廃して、大炊王を皇太子に立てます。それのみならず、翌年の天平宝字二年(七五八)、孝謙女帝(41歳)を譲位に追いこみ、大炊王(26歳)を第四六代の淳仁天皇として即位させるに至りました。

その譲位は、表向き女帝が母上の光明皇太后(58歳)に孝養を尽すためと公表され、女帝に対して淳仁新帝から女帝に「宝字称徳孝謙皇帝」という尊号を奉られています。しかし、それから三年後(七六一)、孝謙上皇(44歳)は、病を癒やすために看病僧の道鏡(既に老境の62歳)を近づけて重く用いられたところ、天皇から二人の関係を諫められました。

すると、上皇は反発して出家されるだけでなく、「政事は、常の祀(まつり)と小事は今の帝が行ひ給へ。国家の大事と賞罰、二つの柄は朕が行はん」との宣命を出され、天皇の重要な大権を取りあげて自ら復位する意向を表明されたことになります。

それに対して太師(太政大臣)の仲麻呂は、天平宝字八年(七六四)の九月、上皇に謀反を企てましたが、逆に密告され敗死してしまいます。しかも翌十月には、淳仁天皇(32歳)が廃位のうえ淡路へ流され、孝謙上皇(47歳)が重祚して第四八代の称徳天皇となられたのです。その際、未婚の天皇には当然直系の皇子も皇女もありませんでしたが、後継者にふさわしい後継皇族がいないとして、皇太子を決めておられません。

五 道鏡の野望と宇佐八幡の再託宣

この孝謙上皇=称徳女帝から寵用されたのが、ご承知のとおり弓削氏出身の僧道鏡です。道鏡(七〇〇~七七二)は、若くして法相宗を学び、やがて平城宮の内道場に入ることを許され、天平宝字五年(七六一)病床にあった上皇(44歳)の看護に効験を表わしたことにより、過分な信任をえるようになりました。そして三年後に六十五歳で「太政大臣禅師」という破格の職に任じられ、翌年「法王」という特別の位を授けられますと、僧侶でありながら「政の巨細、決をとらざるなき」権勢をもつようになり、宮中への「出入警蹕(先触れ)一に乗輿(天皇)に擬す」ほど増長し始め、神護景雲三年(七六九)の正月には、大臣以下の拝賀を受け、自らを天皇になぞらえて憚らないようになっています。

しかも、そのような道鏡の弟弓削浄人は、大納言兼大宰帥(現地へ赴かない遙任)に抜擢されると、豊後介から大宰府主神になった中臣習宜阿曽麻呂が、宇佐八幡宮神主の大神田麻呂などと組み、「八幡の神の教へ」だと称して、「道鏡を皇位に即かしめたまはば天下太平ならん」と浄人に知らせてきました。

その上表を受けられた称徳女帝は、どうしたらよいか困惑され思い悩まれ、近侍する法均尼(広虫)の弟で近衛将監(天皇護衛の武官)の清麻呂(37歳)を召され、「汝よろしく(宇佐へ)早く参りて神の教へを聴くべし」と命じられました。

すると、それを知った道鏡(70歳)は、ひそかに清麻呂を自邸へ呼び出し、「宇佐の大神が遣使を請うのは、我を即位せしめよと告げるためであろうから、そのように返奏してくれるならば、汝に大臣の位を与えよう」(要旨)と誘惑をします。しかも、清麻呂の本姓を「藤野別真人」から「輔治能真人」(朝廷の政治を輔導する有能な人物を意味する)という文字に改め、出身地の備前「藤野郡」も「和気郡」と改めて、歓心を買おうとしています。

しかし、清麻呂は毅然として宇佐へ赴き八幡宮の社頭に額づきました。ところが、神主の口から伝えられたのは、前の託宣と同じく、道鏡に天皇の位を授けるがよい、というものでした。そこで清麻呂は、再び必死の祈りをこめ「いま(八幡)大神の教へたまふところ、これ国家の大事なり。(この)託宣は信じ難し。願はくば(あらためて)神異を示したまへ」と叫ばれました。

すると、身の丈三丈(約9m)余りの光輝く大神が忽然とあらわれて、次のような託宣を下されたと伝えられています(『続日本紀』神護景雲三年九月己丑条。「分」の一字は『日本後紀』延暦十八年二月の清麻呂薨伝に引く託宣で補う)。

わが国家は開闢より以来、君臣(の分)定まれり。臣をもって君となすこと、いまだこれあらざるなり。天つ日嗣(皇位)には必ず皇緒を立てよ。無道の人(道鏡)はよろしく早く掃ひ除くべし。

これによれば、わが国では、天地の開け始めてから君主と臣下の分別が定まっており、臣下を君主(天皇)とするようなことは、これまで全く無いから、天皇の地位には必ず「皇緒(皇儲、皇族身分の継承者)を立てるべきである。従って、その資格がないのに皇位を窺うような道に外れた人(道鏡)は早急に排除しなければならない、というのが宇佐八幡の神意として示されたことになります。

六 和気清麻呂の奉報と称徳女帝の対処

これは不思議な出来事です。宇佐の八幡宮は、社伝によれば、欽明天皇朝(六世紀中ごろ)「護国霊験の大菩薩」として「誉田天皇広幡八幡麻呂」(童形の応神天皇)が宇佐で祀られるようになった(『扶桑略記』など)ともいわれています。応神天皇は神功皇后が北九州へ遠征中に筑紫で誕生され、大和で大勢力を築かれた「大王」ですから、早くより当地で祀られていた可能性は高いと思われます。

ただ、この大神が奈良の都で広く知られるようになったのは、天平十五年(七四三)東大寺の造営に際して、宇佐から上京した神主らが造営を応援する託宣を上奏したころからです。それより二十数年後、道鏡と関係者が宇佐の神威を利用して、最初の神託を作りあげ上申したものと考えられます。ですから、当時の朝廷では、これを鵜呑みにして、その実現に動き出したのでありましょう。

けれども、それに不審を懐かれて待ったをかけられたのが称徳女帝であり、その内命を承って宇佐へ赴き、必死に祈りをこめて再度の託宣を受けたのが和気清麻呂であります。むしろ清麻呂は自らの信念(見識)について神前で確信をえた、ということであろうと思われます。

しかし、これを都へ帰ってそのまゝ報告すれば「法王」道鏡がどんな反応をするか、ということは容易に予測できます。案の上、清麻呂が宮中に参内して、女帝の御前で再度の神託を奉奏しますと、傍らにいた道鏡は激怒するのみならず、女帝に清麻呂処罰の詔を出させています。

その詔をみますと、女帝の密命を承った清麻呂は、姉の法均尼と共謀して「いと大きに悪く奸める妄り語」を「大御神の命と偽りて」上奏したと非難し、その氏名を「別部穢麻呂」(姉の広虫も「別部狭虫」)と改めさせ、南九州の大隅(姉も備後)へ流罪に処されたのです。

しかし、この配流は、むしろ称徳女帝による助命措置でした。『日本後紀』の清麻呂薨伝によれば、「天皇は誅するに忍びず……(道鏡)まさに清麻呂を道(謫地へ下向中)に殺さんとするも、雷雨晦暝、未だ行に即かざるに、俄に(天皇の派遣された)勅使来り、僅かに免がるることを得たり」と真相が明かされています。

それから半年後の神護景雲四年=宝亀元年(七七〇)三月から病床につかれた女帝(53歳)は、看病のためでも道鏡を遠ざけられ、吉備真備の娘(ないし妹)とみられる吉備由利(従三位・命婦)を用いられています。そして八月四日に崩御されましたが、その間際に後継者として白壁王(天智天皇の皇子施基親王の王、72歳)を指名されたらしく、崩御直後の重臣会議においてこの「遺詔」を持ち出した藤原氏の有力者により推された白壁王が、第四九代の光仁天皇として即位されるに至りました。

これによって、それまで天武天皇の直系により継承されてきた皇位は、数十年間ぶりに天智天皇系へ移った、として強調する論者が少くありません。しかし、それは父方にみられる変化であり、母方も含めて考えれば、すでに持統女帝も元明女帝も天智天皇の皇女であり、元明女帝の娘である元正女帝まで登場しています。もっとも、前述のとおり、元正女帝は母帝と同様、首皇子(聖武天皇)が成長されるまでの中継ぎですから、これを女系天皇の実例ということには無理があります。

その上で、孝謙=称徳女帝の場合、前述のとおり聖武天皇と光明皇后の嫡子(皇女)阿倍内親王が、天皇と夫人の庶子(皇子)安積親王よりも重んじられて、皇太子から天皇となり重祚までされえたのです。

しかしながら、独身のために直系子女不在のまゝ最期を迎えられました。そこで、称徳女帝の「遺詔」として、故安積親王と同じく、夫人県犬養広刀自所生の皇女井上内親王を通じて聖武天皇の血縁を繫ぐため、この内親王が結婚して既に他戸王(10歳)などを儲けていた白壁王を推戴することになったのは、むしろ当然の成り行きであったとみられます。

七 皇統永続に必要なことは何か

以上、本日は当社の祭神でもある和気清麻呂と姉広虫姫が亡くなって千二百年目という機会に、二人が仕えた孝謙=称徳女帝を主題として、その登極から崩御までの主な経緯を申し上げて参りました。それによって、いわゆる「万世一系」の皇統は、何とか守られ繫がれえたのだ、といってよいと存じます。

念のため、少し繰り返しになりますが、およそ「皇統」の概念には、古代から近代初頭まで、男系とか女系という区別を前提にした法制などありません。より重大な要素は、皇祖神を仰ぐ皇宗の子孫と信じられる皇族のうち、皇位を担う継承者として、直系の男子(嫡子)が最も望ましいけれども、そのような御方がおられなければ、男性庶子であれ女子であれ即位を公認してきた、という史実であります。

それゆえに、孝謙女帝の即位も称徳女帝の重祚も可能になったのです。ただ、看病僧として近付いた道鏡が寵用され、皇位まで窺うことを企てたところ、女帝の密命を受けて、それを命懸けで阻止したのが和気清麻呂公であります。その時に宇佐大神の「託宣」として清麻呂が上奏した信念の核心は、天皇の地位に即くことができるのは「皇統」(皇族身分の継嗣)に限られ、どんな臣下にも資格がない、という「君臣の分」にほかなりません。

そこで、最後に申し添えますと、明治以降も戦後も「皇室典範」により定められている皇位継承の有資格者は、「皇統に属する」「男系の男子」に限られていますが、古代以来の歴史に照らして、いわゆる男系(父方)の男子を優先するにせよ、皇統に属する皇族であれば、女子も即位を可能としておく必要があります。他にも色々な方策があれば、それらも検討してよいと思いますが、皇室の方々が皇族として受け容れることのできる具体案を政府で作り、国会で議論をつくして法改正を実現することに、主力を注いで頂きたいと念願しています。

 

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