満九十歳の上皇陛下への感謝報恩 所 功(82)
上皇陛下(平成の天皇)は、昭和八年(一九三三)十二月二十三日(土)の朝六時三十九分、お健やかに誕生された。大正十三年(一九二四)一月の御成婚から十年目に、皇位継承の可能な皇太子の御降誕は、天皇(32歳)・皇后(30歳)両陛下をはじめ、全国民にとって大きな喜びであったにちがいない。
その上皇が、本日(土)満九十歳の佳節を迎えられた。長寿大国の日本(平均寿命は男性81.5歳、女性87.6歳)でも、一歳お若い上皇后陛下と揃って御健勝であり、しかもライフワークのハゼの分類研究にご精励というようなことは、日本史上に前例がない。心からお慶びを申し上げたい。
この数十年間に、陛下は幾多の試練に遭遇されながら、それを懸命に克服して来られた。たとえば、昭和二十年(一九四五)八月十五日、父帝(44歳)の玉音放送を疎開先で謹聴された少年皇太子(11歳)は、穂積重遠東宮大夫から詔書の説明を受けて「新日本の建設」と題する次のような御作文を書かれた(木下道雄侍従次長『側近日誌』)。
「これからは、このどん底からはい上がらなければなりません。それには、日本人が国体護持の精神を堅く守つて一致して働かなければなりません。・・・それも皆、私の双肩にかかつてゐるのです。・・・それには・・・どんな苦しさにもたへしのんで行けるだけのねばり強さを養ひ、もつともつとしつかりして、明治天皇のやうに皆から仰がれるやうになつて、日本を導いて行かねばならないと思ひます。」
何と見事な御決心であろうか。この御覚悟を常々忘れず勉学と修徳に努められた。そして同三十四年(一九五九)の四月、比類ない才媛の正田美智子さまを迎えられ、翌年(28歳)の二月、皇長子浩宮徳仁親王を儲けられことは、皇室にも国民にも安心と安定をもたらされた。
ついで、同六十四年(一九八九)の一月、父帝(87歳)の崩御により即位された天皇陛下(55歳)は、現行憲法の制約下であっても、日本国の象徴(代表者)・国民統合の象徴(中心者)として、その役割を全身全霊で積極的に果たして来られた。
しかも、八十歳代に入る頃から、高齢化により本来の務めが十分に出来なくなることを懸念して、皇室典範に規定のない「譲位」の御意向を慎重に表明された。それを承けて、平成二十九年(二〇一七)成立の「特例法」に基づき、同三十一年(85歳)の四月末日、正式に「退位」されるに至った。それは、皇統と公務の永続を念願する国民からの負託を受けている政府と国会与野党が大筋で合意すれば、法律たる皇室典範の実質的な改正可能なことを実証された画期的な出来事といえよう。
これによって、すでに壮年の聡明な皇太子殿下(59歳)は翌五月一日践祚(即位)され、父帝の御偉業を受け継ぎながら、新時代に相応しい公務に励んでおられる。そのおかげで、近ごろ著しい政治不信などが露呈しても、天皇(皇室)への信頼と敬愛の念を懐く大多数の国民は、依然安心しておれるのだろうと想われる。
従って、この機会に私どもは、その基礎を築かれた上皇陛下に関する理解を各自で可能な限り深め、感謝の気持ちを身近な有縁の人々に伝えていきたいと思う。それに加えて、宮内庁に検討して頂きたいことがある。
その一つは、敗戦後まもなく東北の青年有志により始められた「皇居勤労奉仕」の人々に対して、令和の現在も御都合のつく限り天皇陛下(および皇后陛下)からの御会釈を賜ることなっている。その際、たとえば赤坂の仙洞御所に居られる上皇陛下と上皇后陛下が普段着のまま玄関先に出られたら、奉仕の人々より感謝の思いをお伝えできるような機会を設けて頂きたい。
もう一つは、上皇陛下の御事績に関する膨大な資料は、すでに相当収集されているであろうが、『昭和天皇実録』のごとく崩御後に開始されるという平成の天皇(令和の上皇)の実録編纂事業を、なるべく早目に人材と予算を用意し開始して頂きたい。それによって、宮内庁の旧奉仕者や民間の関係者などが所蔵される資料の散逸を防ぎ、国内外の新資料も発見されることを期待したい。これも報恩の一つとなろう。 (令和五年十二月二十三日夕記)