渡邉允元侍従長の伝えた皇室のご意向
京都産業大学名誉教授 所 功
明治の『皇室典範』は、その本文を改正したり増補する必要が生じたならば「皇族会議(議長天皇)及び枢密顧問に諮詢して之を勅定」(第六十二条)することができた。
それに対して戦後の現行典範は、『日本国憲法』の第二条に基づく法律であり、しかも何故か改正規定がない。従って、その内容を改正したり増補するには、「主権の存する日本国民の総意」を代表する政府・国会で検討して合意を形成して議決する必要がある。
「国政に関する機能を有しない」天皇の在り方
その際、十分に考慮すべきことは、皇室のご意向であろう。典範は皇室の方々の在り方を規定するものだから、当事者である天皇と皇族たちのご意向と無関係ではありえない。
ところが、現行の憲法第四条に「天皇は・・・国政に関する権能を有しない」と規制されている。そのため、法律の改正に関することなどへの意向表明はできないと解され易い。それにも拘わらず、平成の天皇は高齢化が進めば「象徴としての務め」を果たせなくなるから、次の世代に受け継いでほしい、というご意向を直接国民に表明された。
それに大多数の国民が理解と共感を示した。そこで、政府も国会も本気で協議して、本文の終身在位の原則は変更せず、「高齢退位」を可能にする「皇室典範特例法」を成立させた。その結果、平成三十一年(二〇一九)四月末日で譲位が実現し、翌日から「令和」の御代を迎えることができたのである。これは正に画期的な出来事といえよう。
渡邉允氏(侍従長・宮内庁参与)の功績
この平成の天皇陛下に長らく仕えたのは、渡邉允(まこと)氏(一九三六~二〇二二)である。同氏の曾祖父千秋氏は大正十年(一九二一)から宮内大臣、また父上の昭氏(一九〇一~二〇〇五)は昭和天皇の御学友で長らくボーイスカウト連盟総長を務めた。
允氏は東大法学部を卒えて外務省に入り、要職を歴任した。平成七年(一九九五)から、宮内庁の式部官長となり、侍従長を十年半勤め、没年まで宮内庁参与を拝命している。
同氏は真に温厚な心優しい紳士ながら、強い信念と勇気の持ち主であった。たとえば、平成十一年十二月に中国の習近平副主席が来日直前、天皇陛下との会見を強硬に申入れた際、ご日程の調整困難と断っている(ただ、結局鳩山首相に押し切られた)。
また、同十七年六月、両陛下がサイパン諸島(米国自治領) の戦没者慰霊をされえたのも、同氏が外務省の人脈を通して米国と丹念に交渉して実現したといわれている。
さらに、同十九年二月、前年オーストラリアで出版されたベン・ヒルズ氏著『プリンセス・マサコ』に甚だしい誤記誤解があることに気付き、その日本語版が出る直前、それを中止させたのも、同氏の決断によるとみられている。
『天皇家の執事』文庫版の重要な「後書き」
その侍従長退任後(平成二十一年十月)、名著『天皇家の執事』を出版された。しかも二年後(同二十三年十一月)、それに「皇室の将来を考える」と題する詳しい「後書き」を加え、文春文庫から刊行されたことは、極めて重要な意味をもっている。
なぜなら、この中に当時の皇室(平成の天皇)のご意向が、最も信任の厚い元侍従長を介して、かなり明確に伝えられていると認められるからである。よって、その主要な部分を抄出し添付した。現在の皇室(今上陛下)のご意向もこれに近いとみてよいであろう。
とすれば、政府も国会もマスコミなども、このようなご意向をふまえて、真剣に議論を進めてほしいと念じている。 (令和六年五月二十七日)
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