「国体を護持しえて」と言える平生の心がけ



「国体を護持しえて」と言える平生の心がけ       所  功

前回掲載した「終戦の詔書」に「国体を護持しえて」とある。これを「日本らしい国柄を守り通すことができ」と試訳した。戦後「国体」という表現はタブー視されてきたが、個人の「人柄」と同じような意味で国家の「国柄」にほかならない。

この「日本らしい国柄」の中核に、天皇を中心とする皇室がある。その皇室を支える「皇族の確保」に関する方策の法的整備が、何とか具体的に前進することを心から願っている。

しかしながら、それだけでよいというわけではない。憚りながら率直に申せば、皇族は皇室に在る限り(皇籍を離れても)「品位の保持」に努められなければならない〝公人〟である。そのために、幼少期から一般の知育だけでなく、特別な徳育の体得を必要とする。

たとえば、昭和天皇は大正三年(一九一四)から七年間(十三歳から二十歳まで)、特設の「東宮御学問所」で広汎な帝王教育を受けられた。その要(かなめ)の「倫理」を担当した杉浦重剛(日本中学校長)は、次の三ヶ条を基本方針としている(括弧内私注)。

①一、三種の神器に則り、皇道(日本の国柄)を体し給ふべきこと。

②一、五条の御誓文を以て、将来の標準(国政の基本)と為し給ふべきこと。

③一、教育勅語の御趣旨の貫徹(実践躬行)を期し給ふべきこと。

このうち、②は日本の近代化を可能にした指針として、今も高く評価されるが、①と②は戦後の教育で無視・否定されてきた。しかしながら、その中味をみれば、①は北畠親房の『神皇正統記』などに、鏡・玉・剣の神器は知・仁・勇を表わすもので、帝王の具備すべきの三徳と解される。③にも帝徳の涵養に努め国民に範を示す決意が示されている。

ちなみに、終戦翌年の元日、昭和天皇(45歳)が公表された「新日本建設に関する詔書」の冒頭に「五箇条の御誓文」を全文引用して、「叡旨公明正大、又何をか加へん」と仰せられ、さらに「朕と爾等国民との紐帯(絆(きずな))は、終始相互の信頼とによつて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。(中略)朕の信頼する国民が、朕と共に心を一にして、自ら奪ひ、自ら励まし、以て此の大業(新日本の建設)を成就せんことを庶幾(こいねが)ふ」と結ばれている。

一方、「皇位は世襲」と定める「象徴」の天皇を現行憲法に定める日本国民は、多様な「権利と自由」を享受するにも、「公共の福祉」を考慮しながら、天皇の信頼・期待に応える立場にある。そのためにも、お手本となるのが天皇と皇族たちの在り方ではないか。そう考える私は、平成の初めころから、左の三則を「生きる心がけ」としてきた。

一、自ら学んで知恵を磨くこと(勉学)

一、人に尽くす仁徳を積むこと(尽心)

一、世に伝える勇気を出すこと(振気)

もちろん、これは目標であって万分の一も実行できていないが、今後とも皇室の方々に感謝しながら、このような三則の実践を心がけたい。

いわゆる「国体を護持」するには、非常時に命懸けの決意と行動を要するが、むしろ平常時に良識的な努力を心がけてこそ可能になるのではないかと思われる。

(令和六年八月十五日記)

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