松陰神社の崇敬会設立総会から有識者会議ヒアリングまで
(かんせい汗青PLAZA主筆) 所 功
この十一月前半、かなり多忙ながら、得がたい経験をすることができた。その一端を二回に分けメモしておこう。
松陰神社立志殿と京セラ美術館
まず四日(金)朝、新幹線で小田原から新山口へ向かい、松陰神社の上田俊成名誉宮司の出迎えを受けて萩に入り、神社の関係者数名と萩本陣ホテルで会食。翌五日(土)午前、本殿に正式参拝の後、先月二十七日(松陰先生の命日)に竣工した「立志殿」で開催された「松陰神社崇敬会」の設立総会において「士規七則の現代的意義」と題する記念講演をさせて頂いた。
この「立志殿」(研修会館)は、昨年六月、神社を訪ねた篤志家(千葉県の実業家)が、一億以上の寄付を申し出られ、わずか一年あまりで完成した。その方は、松下村塾に学んだ正木退蔵が明治初年イギリスへ渡って若き作家スチーブンスンと会い、恩師の俤を語ったところ、感動して短編「YOSHDA・TORAZIRO」を書いたという話に心動かされ、松陰先生のために何か役立つことをしたいと思い立ち、その夢を叶えられたことになるが、竣工前にガンで他界されたという。まことに数奇な出来事である。
その立派な立志殿では、記念講演の後、「松陰の夢」と題する舞台劇が、見事に披露された。演じたのは、神奈川県川崎市の劇団「熱血天使」、若々しい松陰先生と高杉晋作と久坂玄瑞および妹文と母滝を彷彿とさせる団員の熱演に、みな感動を覚えた。
同夜京都市まで戻り、翌六日(日)朝早く洛南の京セラ美術館へ出向いた。同館では、九月十日から有志と共に「近世京都の宮廷文化」特別展を十一月十三日まで開催してきた。その展示を日テレの「皇室日記」クルーが撮影するというので、開館前に解説役を務めた(二十七日朝放映予定)。
その午後、同館の研修室で三回目の特別講座。まず今秋の展示に格別尽力してくれられた宮廷文化研究家の吉野健一氏が「東山天皇御即位式屏風」(小原家蔵)を中心に最新の研究成果を発表され、続いて私が「京都で行われた大正・昭和の大礼(即位礼と大嘗祭)」を中心に講述した。
この展覧会は、PR不足だったが幸い盛況で、当日来館者が通算五千名を越えた(同時開催の城南宮では八千名以上)。庶幾の目標が達せられたことに感謝しながら、夜遅く小田原へ帰り着いた。
有識者ヒアリングのあらまし
ついで七日(月)午後、総理大臣官邸の小ホールで行われた「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」の第一回ヒアリングに出かけた。私は当日最後の五番目であったが、早めに官邸へ着いて、控え室で四人を迎える形となり、お陰で全員と懇談することができた。
二時半から始まった会議は、各人三〇分(口述二〇分、質疑一〇分)、休憩一五分の予定が少しずつ延び、私は五時から入室。正面に着座すると、マスコミ各社が一斉に顔撮りして退出。今井座長の趣旨説明に続いて御厨議長から私の紹介があり、両サイドの委員各位と黙礼を交わした。
私の口述は、平成十七年(二〇〇五)六月八日と同二十四年七月六日についで三度目、今回も時間を厳守するため、事前に原稿とレジュメ・図表を用意し、途中を少し省いて正二〇分に納めた。その後四人の委員から的確な質問があり、それぞれ即座に応答して正一〇分で終わった。
ホットして部屋を出ると、通路に待っていた数十名の記者とカメラマンにワッと取り囲まれ、矢継ぎ早の質問に少し驚いた。何と答えたか、よく覚えていないが、翌朝の新聞やネットを見ると、大体うまくまとめてあり、さすがプロだと感心する。
同夜、かねて依頼のあった日本テレビで皇室担当記者と対談の収録があり、また東京駅で産経新聞の官邸担当記者の質問を受け、さらに帰路の車中でも自宅に着いてからも数社の電話取材があった。その上、翌八日(木)も、朝から夜まで、週刊誌や外国通信社を含む十数社より電話取材が続いた。その質問ぶりは、各社の傾向とレベルを多少反映しているように思われる。
なお、ヒアリングの口述と質疑は、首相官邸のウエブ・サイトに公開されている。また
口述で省略した部分(補説を加えた全文を、当「かんせい汗青PLAZA」とモラロジー研究所の「ミカド文庫」に掲載した。あわせて参照して頂けたら幸いである。
(十一月十七日記)