福岡モラロジー講演会から対馬一周旅行まで



二つの御記研究会と福岡モラロジー女性クラブ
ついで十一月九日(水)午前中、モラロジー研究所において、道徳科学研究センターで、十一月三日にプレオープンしたウエブ・サイト「ミカド文庫」の月例検討会を開き、来年元日の本格的公開に向けて協議を重ねた。
その夕方、新宿の麗澤大学東京研究センターに移動し、まず「後桜町女帝宸記」の原文解説(講師宍戸忠男氏)、続いて「村上天皇御記」の逸文輪読(担当久禮旦雄氏)の後、さらに地階のレストラン「三国一」で、三会員の出版を祝賀した。
その新著は、大東文化大学特別講師原槇子さんの『神に仕える皇女たち』(新典社選書)と帝京大学教授野口剛氏の『古代貴族社会の結集原理』(同成社古代史選書)および麗澤大学助教橋本冨太郎氏の『廣池千九郎』(ミネルヴァ書房・日本評伝選)である。
この原さんも野口氏も橋本氏も、それぞれ長らく苦労しながら研究に励んでこられた裏話などを聴いて、みな心打たれた。発起人の嵐義人氏も私も、ふだん飲まないお酒でほろ酔い気分となり、家内と共に終電で国府津に帰った。

その翌朝、小田原から新幹線で博多へ向かい、夕方福岡駅の近くに投宿。翌十一日(金)午後、「福岡モラロジー女性クラブ」主催の講演会で「吉田松陰の心豊かな家庭教育論」につき二時間近く話した。
ここでは、昨年八月に公刊した拙著『松陰から妹達への遺訓』(勉誠出版)所収の妹千代あての書簡を中心に、松陰の家族・親族への思い遣りから学ぶべきことを紹介した。会場一杯の二百名を越す来聴者の多くが共感されたようで、まことにありがたい。
この会合は、女性リーダーの内山さんたちが企画され、近県まで呼びかけて成功した(後の懇親会にも数十名参加)。近年どの分野でも女性の活躍が目覚ましい。モラロジーの未来を拓き担うのも、女性の役割が大きい。

念願の対馬を訪ね、各地で至宝に出会う
さらに翌十二日(土)朝、前日から来聴されていた対馬モラロジー代表世話人の武末裕雄氏と一緒に、福岡空港から対馬の厳原空港へひとっ飛び。そこに前日到着されたモラロジー研究所の同僚、というより対馬藩主の御子孫(伯爵宗武志氏御令息)の宗中正先生と、地元有志が出迎えて下さり、武末氏の大型乗用車で三日間かけて島内を一巡することになった。
対馬(『古事記』では「津島」)のことは、名古屋大学の文学部史学科に在学中、かつて朝鮮総督府の歴史編纂官であった中村栄孝主任教授から、その重要性を何十回も聴いており、五十年ぶりに念願が叶ったのである。
とりわけ宗先生(地元では今も「殿さま」と呼ぶ人が少なくない)と武末さんのおかげで、対馬市役所観光商工課長の二宮照幸氏が先導役、長崎県文化財保護指導委員会長の小松勝助氏と対馬雨森芳洲会事務局長の永留史彦氏が説明役として、終始同行されたことは、何よりありがたい。
まずその午前、宗家の菩提寺万松院へ詣る。長い石段を登って歴代藩主と同夫人の石塔を巡拝した。続いて近くの対馬市立歴史民俗資料館を訪ね、優秀な学芸員に案内されて、約八万点の宗家文書(一括重要文化財)を特別に収蔵庫で拝見して、心から感動した。その大半を占める「毎日記」は、江戸時代二百余年分すべて現存するという。
ついで、その午後、厳原から南端の豆酘(つづ)へ向かった。この「ツヅ」は、昭和三十年(一五九五)田中卓博士が訪れられ、古代海遊氏族の阿曇氏の奉じた「ツツノオノカミ」(筒男神、住吉神社の主祭神)発祥地と推定されたところである。
その地区の龍良山(たてらさん)山麓にある八丁郭あたりは、今も原生林に覆われており、その奥の「天道(天童)法師」墓塔と伝えられたる石積に辿り着いた。このあたりは、大正八年(一九一九)東大院生の平泉澄博士が初めて踏査され、原始的なアジール(治外法権エリア)の遺蹟と推定された聖域である。天道(天童)法師は、お天道さま(日神)の子として、ここで七世紀後半に生まれ没したという。
それから、西岸を北上し、久根で安徳天皇の陵墓参考地に詣り、さらに上って夕方、小茂田浜神社へ着いた。同社は約八百年前の文永・弘安の役(元寇)で蒙古軍が襲来した小茂田浜にあり、守護代の宗資国ら八十余騎が奮闘の末に全員戦死したので、その英霊が祀られている。
そこで、まず前夜祭、翌十三日(日)午前に当日祭が営まれ、宗先生と共に参列した。この神事は、命懸けで島と国を護った主従に感謝する鎮魂と慰霊の祭にふさわしく、厳かに執り行われた。
しかし、それに続いて武者行列が屋台の並ぶ境内を練り歩き、浜に出てからの祭礼は、西の海に向かって、宮司が弓を引き、奉行が鬨(とき)の声をあげる姿も、まことに勇ましい。さらに響心会の大太鼓は、惰眠を貪る現代人に覚醒を促すかのようであった。
それから社務所で氏子さんたちと直会(なおらい)を楽しみ、命婦の舞を奉納されたNさん宅でお茶のもてなしを受け、夕方から前漁協組合長さん宅での直会にも出て夜遅くまで談笑した。
翌十四日(月)朝、厳原のホテル出口で、豆酘において開かれる赤米サミットに来られた京都文教短大学長の安本義正先生と出会った。それから二宮さんの運転で国道を北上し、永留さんと小松先生の説明を聴きながらの充実した〝修学旅行〟である。
その途中、大船越・小船越では、河を遡り船を曳いて峠を越した昔を偲ぶ。また豊玉町の和多都美神社(式内社・対馬一宮 祭神豊玉姫と彦火々出見尊)では、平山静喜宮司に案内されて、本殿背後の原初的な大岩倉を拝見した。
さらに三根では、峰町歴史民俗資料館を見学し、出土した縄文・弥生の遺物から、三世紀前半に魏の使も帯方郡から当地(三根湾)に寄り壱岐へ向かった可能性が高い、との説に共感することができた。
それから北上中、宗家ゆかりの家々を廻り、夕方近く上対馬町比田勝の殿崎「日露友好の丘」に到着。日本海々戦百周年(平成十七年)に武末氏等の尽力で建てられた慰霊碑(ロシア将兵四万九千余柱、日本兵百余柱の全氏名を刻む)に参拝献花した。
この殿崎では、対馬沖から漂着したロシア水兵百余名を漁師たちが救い上げ、自宅で親切に介抱している。それに感謝してロシア側が戦没将兵の名簿を提供し、除幕式に駐日大使らも参列したという。プーチン大統領も安倍総理と一緒に、ここで日露首脳会談をされたらと思った。
その後、少し暗くなったが、北端の鰐浦まで行き、展望台に登ったところ、眼下に四世紀後半、神功皇后が三韓に出航されたという「和珥津」(わにつ)を偲び、また五〇㎞先の海上に釜山のネオンサインを視ることができた。
翌十五日(火)朝、武末さんの創業されたスーパーマーケットと高齢者福祉施設で「朝礼」の挨拶した後、県道を一路南下。舟先あたりの「もみじ街道」は文字どおり素晴らしい。
昼ころ厳原へ着き、宗先生ゆかりの老夫人を見舞い、そこで戦時中、貞明皇太后さまに侍女として奉仕された逸話を承り写真まで見せて頂いた。
午後二時、厳原港からジェットホイルに乗り、壱岐を経て福岡港に到着。そこで宗先生と別れ、新幹線で戻る途中、京都で友人と会い、最終で小田原の国府津に辿り着いた。
この数日にわたる福岡・対馬旅行は、まことに楽しかったが、帰路の車中で新聞を見て、前日の第二回ヒアリング概要を知り愕然とした。石原信雄元官房副長官以外、なぜ今上陛下の御軫念を真摯に受けとめようとしないのだろうか。まことに憂いは深い。
(平成二十八年十一月十七日記)

※11月15日発行、読売新聞長崎版の小茂田浜神社祭礼の記事に、所功のコメントが掲載されましたので資料として添付します。

添付資料

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