歳末の十二月を「しはす」という。それは「為し果つ」「成し終る」意(紫門和語類集)と解してよいと思われるが、一般的には「師走」の字を充て「お取り越し経を読むため、法師が門徒の家を走り廻る師馳す」義(奥義抄・名語記)と説かれている。
いずれにせよ、私にとっては為すべきことの多い有意義な一年であった。そのうち、師走に入ってからの主な出来事を簡単にメモしておこう。
その一
後桜町女帝の二百年式年祭にちなんで
今年十二月二十四日に後桜町女帝(一七四〇~一八一三)の二百年式年祭を迎えることにちなみ、七月十四日、京都産業大学の壬生ホールで記念シンポジュムを開いた。
その数日後、宮内庁から女性で宮廷和歌史の研究論文がある家内の所京子あてに同女帝の御事績を御進講してほしいとの御依頼があった。これには本人も私も全く仰天したが、研究者として畏れ多くも無上の光栄な機縁に恵まれたと感謝し、敢えて引き受けた。
それ以来五ヶ月、本人は毎日やせる思いで(実際には殆どやせなかったとみえるが)準備に努力し、私も可能な限り協力してきた。近世宮廷史の専門書を読み尽くし、とりわけ同女帝の御日記を解読中の宍戸忠男氏等に何度も示教を仰いだ。
やがて御進講前日の十二月十二日、万一に備えて皇居の近くで宿泊するため上京。まず宮内庁の書陵部へ参上して諸心得を承り、そのあと靖国神社に昇殿参拝し、宿舎(神田の学士会館)で最終的な習礼(リハーサル)を行った。
当日の十三日には、お迎えの車で参内し、吹上御苑内の御所応接間へ入り、付人の私はそこで待機した。本人は別室へ赴き、天皇・皇后両陛下(皇太子・同妃殿下も御陪席)の御前で、三十分ほど御進講申し上げ、三十分近く御下問を賜った由である。詳しいことは口外を慎むが、両陛下も両殿下も御熱心にお聴き取り下されたと聞き、安堵の胸をなでおろした。ただ、御下問には即答し難いことが何項目もあったので、可能なかぎり精査して「奉答文」を纏め、書陵部を介して侍従職へ届けた。
その帰途、皇居の東御苑を友人と散策していたところ、ちょうど宮内庁で職員の作品展覧会が開かれていると聞き、ご諒解をえて見学に行った。すると、その正面に新年歌会始の御製宸筆と皇后陛下御歌御染筆が掲げられ、また、皇太子・同妃両殿下の撮られた御写真、さらに敬宮愛子さまの御習字「明るい街」などを拝見することができた。
それから十一日後の二十四日、皇居では天皇陛下みずから皇霊殿において「後桜町天皇二百年御式年祭」を執り行われた。一方、京都東山の泉涌寺(せんにゅうじ)境内にある月輪御陵では、勅使を迎えて二百年陵前祭が営まれ、家内も参拝させて頂いた。
その二
藝林会の第七回学術大会にちなんで
御進講翌日の十四日、私は朝早く小田原を発ち、まず午前十時から名古屋の東洋文化振興会で「後桜町女帝の書写伝授された仮名論語」につき講述。ついで午後一時半から大阪梅田のNHK文化センターで「今上陛下八十年の歩み」につき講述。さらに夜七時半から松阪の三重県モラロジー国史塾で「おかげまいりとおもてなし」につき講述した後、伊勢で宿泊。
翌十五日、まず朝早く藝林会の有志と内宮で御垣内参拝。ついで皇学館大学において藝林会の第七回学術研究大会。テーマは「伊勢神道をめぐる諸問題」。午前中に高橋美由紀東北福祉大学教授と多田実道皇学館大学准教授から研究発表があり、午後には平泉隆房金沢工業大学教授から記念講演を頂いた。続いて白山芳太郎皇学館大学教授の司会によるシンポジュウムで、岡田荘司國學院大學教授など数名の専門家から積極的な質疑があり、全体に質の高い有益な大会となった。
その夕方、宇治山田駅前の大喜において懇親会。そこで一たん解散し、清水潔皇学館大学々長の御宅へ伺い懇談の後、夜九時から十二時まで外宮の月次祭を外玉垣で奉拝させて頂いた。八十四歳の池田厚子祭主さまが参進される凛とした御姿に心打たれた。
ちなみに、伊勢の神宮は、戦後民間の宗教法人となったが、天皇陛下から皇祖神と仰がれる天照大神の祭祀を預っている、という根本の立場は一貫している。それゆえに、二十年ごとの式年遷宮祭は勿論、毎年の三節祭には、皇族か元皇族の「祭主」が奉仕され、勅使(掌典)が祭文と幣物を奉る。
まして皇居内での祭祀(大祭・小祭・行事)は、天皇ご自身が執り行われるものである。その際、内廷(本家)の成年皇族(皇后陛下と皇太子・同妃殿下)が殿内で拝礼なさり、また宮家(分家)の成年皇族も階下から拝礼される。最近、その来歴と実情を『WiLL』二月号(十二月二十五日発売)の拙稿「天皇陛下の祭祀と内廷皇族の役割」に解説した(このホームページに転載)。
翌十六日は、正午前後、外宮で月次祭勅使奉幣の儀参進列を拝見した。午後は、皇学館大学の神道博物館でもフェリシモしあわせ学校の人々に「お伊勢さんの式年遷宮とおかげまいり」の講述、また岡田芳幸教授から同館の案内をして頂いた。同夜は内宮で月次祭が行われたけれども、奉拝は遠慮した。
翌十七日、朝八時、皇学館大学の教員・学生有志(寮生中心)と内宮への月例参拝に同行。ついでバスで大学へ戻り、特別招聘教授として、神道学部の学生たちに「皇室祭祀における天皇と皇族の役割」につき講義。その後、清水学長や西谷事務局長らと懇談して帰宅した。
その三
安倍首相の靖国神社参拝にちなんで
翌十八日は、朝からモラロジー研究所に出勤して、午後「道徳科学研究センター」の月例研究会で若手研究者二名の研究発表を聴き、研究主幹としてコメント。夜近くで忘年会に出てから小田原まで帰った。
翌十九日は、朝早く新幹線で広島へ向かい、広島経済大学で貴重図書を拝見し、午後一時から同大学の特別教養講座(学生と共に市民も聴講)で「国民の祝日に学ぶ日本の特性」につき講述。その直後京都まで戻り、夕方六時から京都産業大学日本文化研究所で「明和八年の後桃園天皇即位式と『御蔭参り百人一首』」につき研究発表。
翌二十日は、正午から大阪の中央電気倶楽部で「江戸時代の『おかげまいり』と大阪町人の『せぎょう』」につき講述。その足で京都へ戻り、護王神社の弘文院セミナーにおいて「象徴天皇の公務と祭祀」につき講述。ついで夕方六時から同志社大学徳照館で三代御記研究会(今回から村上天皇御記逸文の講読)に出席したが、恒例の忘年会は失礼し、最終で柏へ辿り着き麗澤プラザに宿泊。
翌二十一日は、午前十時半から麗澤大学キャンパスプラザで連続講座「日本史上の天皇」の今月分「明治天皇の六大巡幸と教育勅語」につき講述。ついで夕方六時から麗澤大学新宿研修センターにおいて、「地球システム・倫理学会」(服部英二会長)公開講座で「出雲大社と伊勢神宮の成立プロセスと遷宮システム」について講述したところ、顧問の伊東俊太郎先生などから過分な評価と的確な質問を頂き、懇親会でも多くの方々と議論を深めることができた。
翌二十二日は、自宅で家内と共に前述の御下問奉答文を仕上げることに専念して、久しぶりに徹夜した。しかし、その過労により、翌二十三日、天皇陛下満八十歳の御誕生日一般参賀に上京することが出来なくなり、申し訳ないことながらテレビを観て過ごした。ただ、そのおかげで今回宮内庁から公開された今上陛下の貴重な映像資料の一部を拝見し、あらためて誠心誠意お務めの両陛下に深い感銘を覚えた。
翌二十四日、年賀状(約一千二百枚)の名簿を整理し、娘にデータ修正と印刷を頼んだから、翌日から書き入れをすれば、年内に為すべきことは果たせる予定であった。
ところが、二十六日朝、靖国神社から午前十一時半ころ安倍首相が参拝されるとの連絡を頂いた。これは私も遺族および崇敬者総代の一人として、かねてから念願し、四月の春季例大祭前に、産経新聞へアピールを出したこともある。しかし、内外の諸情勢から当分実現困難と諦めていたから、驚きも喜びも大きく、直ちに新幹線で上京した。
小春日和の靖国神社では、参集殿あたりにマスコミ数十社が押し寄せ、ヘリまで飛ぶ大騒ぎ。しかし安倍首相は、落ち着いてお祓いを受け、まず拝殿脇の鎮霊社へ参拝し、ついで拝殿と本殿の中央を粛々と進み、殿内で正式拝礼を終えられた。その直後、堂々と記者会見を行い、乱暴な質問にも冷静に答えて退出された。その様子を徳川康久宮司などの背後から直接拝見できたのは、年納めの体験として洵にありがたい。
(十二月三十日記)