その四 済州島の見学と論議
今回の済州島(道)訪問は、わずか二泊三日であったが、予期以上の成果をえられた。それは御世話役の向井征氏が、約三十年前からJC・BS・RCの同島友人たちと親交を重ねてこられ(同氏は済州道の外国人名誉市民第一号)、今回も御長男夫妻ともども早くから周到な手配をしてくださり、同島の関係者も万全の受け入れ準備をされていたおかげである。
まず二十日(日)は、昼前に済州市の空港着、ラマダプラザホテルで昼食の後、済州道文化財委員長玄化珍先生(85歳)の案内で、国史跡「三姓穴」を訪ねた。当地の伝説によれば、ここは同島に耽羅王国を創始した三神人が地中から湧き出た大きな穴である。そこへ東方の碧浪国(一説に日本)から五穀の種を持って来た三人の姫と結ばれ、同島の農業が発展するようになったという。
そこで、ここに三聖殿が建てられ、今も毎年四月と十月の十日に春秋の大祭が儒式で行われている。その展示室を見学後、玄先生と親交のある同遺蹟保存会の理事長から、特別に三聖殿の拝観を許可され、今春の大祭ビデオまで頂戴した。続いて広い民俗自然史博物館を見学して、漢拏山(標高一九五〇m、世界文化遺産)中心に広がる同島の来歴を俯瞰することができた。
ついで二十一日(月)は、午前中に済州高等学校(道立)、午後に済州大学校(国立)を訪ねた。高校は一九〇七(明治四十)年開校の実業名門校で、観光関係の六科三〇クラスがある。注目すべきは、同島の全高校が日本語を第二外国語としており、本校の観光外国語科には日本語専攻クラスがあり、志望者も多いという。
一方、済州大学校では、「日語日文学科」の李昌益教授(55歳)の案内で、同校正門近くの「在日済州人センター」を見学した。このセンターは「在日済州人が故郷済州への愛と献身」により「在日韓国人の研究機関として二〇一一年設立された」という。
その立派な一階展示室には、「一九二三年から一九四五年まで済州~大阪を運行した君が代丸(汽船)」で日本へ渡り(戦後も「一九五〇年~一九九〇年まで数多くの韓国人が密航」)、主に大阪や東京で非常に苦労しながら「日本に根を下ろす」に至った歴史の物証が並べられている。
また二階には、多額の寄附をされた金昌仁氏(大阪南海会館会長)の唱える「実践哲学」の名言などが一杯に飾られ、しかも三階では、企画展「在日済州人の民族教育」が行われていた。
さらに二十二日(火)は、マイクロバスに乗り、韓国スカウト済州連盟の呉大秀顧問(74歳)など数名と共に、かつて『耽羅紀行』を著した故司馬遼太郎氏も愛好したという翰林公園や、西帰浦市の大侑ランドおよびオントの滝などを廻って頂いた(どこでも中国の若い観光客の物凄さに驚かされた)。
しかし、このような観光はオプションであって、今回の主な目的は「大切なことを学ぶ会」を二十一日(午後五時~七時)済州スカウト会館で開き、相互の理解を深めることにほかならない。そのため、私の基調講演(前出)は「自分の意見を率直に述べると共に、相手の意見を真剣に聞いて、お互いの長所を知り認め合う」ための縁(よすが)となることを願って、穏やかに話したつもりである。そして、それ自体は通訳のおかげで、大体理解され共感もえられたと思われる。
ところが、その直後、新聞にも論説を書いているほどの紳士から、唐突に「日本の靖国神社がA級戦犯を合祀しているのは絶対に許せない」とか、「戦争中こちらの女子挺身隊が慰安婦として徴用されたことを、日本政府が謝罪しないのは許し難い」などと、言い出された。これには黙っているわけにもいかず、かなり詳しく反論の説明をしたが、ほとんど聴く耳を持たない。
それにも拘わらず、夜遅くまで続いた懇親会では、打って変わって和やかに話しかけられ、三十数年前のソウル訪問時と変わりないことに気付いた。本当は良く判っておられるのかもしれない。
(十一月十一日 稿了)