その三 帰国後の二週間あれこれ
済州島から帰って、直ちに訪問記を書き上げたいと思ったが、以後二週間いろいろなことに時間をとられた。しかし、それも一々意味のある用務で、参加しえたことを有り難く思っている。
たとえば、十月二十四日には、岐阜市のモラロジー事務所改築記念に開かれたニューモラル塾へ出講。二十五日は、メディアックスの編集者と京都嵐山の時雨殿などを訪ね、特集『初心者にもわかる百人一首』の資料収集。二十六日は、まず神戸の生田神社で結婚披露宴に新婦(その父親が皇学館在職中の卒論指導生)の主賓として出席。
それから名古屋のテレビ愛知で「激論コロシアム”皇室の危機”」に出演。翌二十七日は、靖国神社で全国ソロモン会慰霊祭に出席予定であったが、風邪気味のために失礼。二十八日は、自宅で京都産大日文研紀要の原稿仕上げに専念した。
ついで二十九日は、伊勢へ行き、明治二十四年(一八九一)創設の「神宮農業館」、同四十二年開設の「神宮徴古館」、および平成五年(一九九三)創設の「神宮美術館」、同二十四年開設の「せんぐう館」を一巡。それぞれに式年遷宮の記念に作られた当代最新の施設が、神宮の本質と至宝を見事に展示している。翌三十日(教育勅語渙発記念日)は、早朝に内宮へ参拝、それから神宮会館の大講堂で開催の三重県神社関係者大会(約千二百名)に出講し、式年遷宮の意義と今後の課題に言及した。
さらに十一月一日、娘に注意されて家内と近くの病院でインフルエンザの予防接種。翌二日午後から三日午前まで、近江八幡市の研修会館でモラロジーの京滋・北陸ブロック青年交流会に出講。三日午後は京都国際会館の大講堂で開催の京都フォーラム二十五周年大会と盛和塾<大阪>青壮年経営実践発表会(約千名)に出てコメンテーターを努めた。
翌四日は、京都の寓居(家内の実家)で『論語』の何晏集解と朱子集注を対比通読。その上で翌五日、京都御所へ参上して東山御文庫本の仮名書き『論語』(勅封七〇函七番五号)を拝観精査させて頂いた。これは江戸時代の後桜町女帝が明和七年(一七七〇)、後桃園天皇への譲位に先立って、自ら丁重に書写された美しい宸筆本であり、朱子の新注本が流布していた当時、宮中では何晏の古注本も大切に伝えておられたことを知りうる貴重な資料なのである。
翌六日は、柏のモラロジー研究所に出勤。午後の月例研究会で二名の教育の在り方に関する研究発表を聴き、若干のコメントをしたが、研究顧問の服部英二、伊東俊太郎両先生のハイレベルなコメントに教えられること多大であった。さらに翌七日から九日までに雑誌『WiLL』正月号の原稿を書き上げ、本日ようやくこれを記す時間ができた。
(十一月十日)