靖國神社「みたま祭」の賑い
台風が過ぎて爽やかな十六日(木)、朝早く柏のモラロジー研究所に出勤。昼ころM新聞社のベテラン記者が来訪され、皇室問題について懇談。夕方、同僚の若い研究員H氏と靖國神社に参拝した。
当日は十三日からの「みたま祭」最終日。午後五時ころであったが、若い男女や浴衣着の家族づれ、それに勤め帰りのサラリーマンも段々に増え、大鳥居から拝殿まで身動きできない程の大賑い。
この「みたま祭」は、敗戦ショックとGHQ占領下で参拝者の激減する状況下、戦闘で戦死された英霊だけでなく、空襲や原爆などで亡くなった全戦没者の「みたま」を慰めるために、昭和二十二年七月から始められた。
その経緯は、数年前(平成十九年)拙稿「みたま祭の来歴と意義」が社報『やすくに』六二四号に、また詳論「靖國神社みたま祭の成立と発展」が『明治聖徳記念学会紀要』四四号に掲載(後者はネット上に公開)されている。
これを調べた時に感心したのは、民俗学者柳田国男翁の働きである。大戦末期に古希を迎えた翁は、戦没者の「記念(追憶)を永く保つこと、その志を継ぐこと、及び後々の祭を懇ろにすること」を再認識するため『先祖の話』を書き上げられた。
しかも、翌二十一年七月から「靖國文化講座」で「氏神ト氏子ニ就テ」連続講義を行い、養子先の柳田氏出身地(長野県飯田市)から申し出た靖國神社への盆踊奉納を活かして、翌年から「みたま祭」を始める仲立ちをされたのである。
三宅久之氏「愛妻、納税、墓参り」
この新しい祭が六十数年経て、今では千代田区民の代表的な夏祭ともなっている。しかも、参道両側に並び立つ献灯の奉納者は、まさに全国に及ぶ(北海道の出村龍日氏が総裁の教団関係者だけで千灯を越す)。また各界の有志が揮毫した雪洞(ぼんぼり)も、まことに個性豊かな作品が多い。
ちなみに、私は崇敬者総代の一人として毎年下手な字で何か書かなければならない。今回は昭憲皇太后の百年祭にちなみ、御集の中から次の一首(日露戦争翌春「靖國神社にまうでて」の御詠)を見出し謹書して奉納した。
神がきに涙たむけて拝むらし かへるをまちし親も妻子(つまこ)も
こうした境内を一巡して帰ろうとした所で、中年の紳士に呼びとめられた。見れば昨年十一月に八十三歳で永眠された三宅久之先生とそっくりの御令息真(まこと)さん(五十歳)である。私は先生を偲ぶ会で御挨拶しただけであるが、真さんは「父が読売テレビの番組で会った所さんのことを良く話してました。これからも靖國のため日本のために頑張って下さい」と言われ、深い感銘を覚えた。
その三日後(十九日)真さんから著書『愛妻、納税、墓参りー家族から見た三宅久之回想録』(イースト・プレス刊)が届いた。父上の真骨頂が見事に描かれている。特に標題の名言は、まさに家族と国家と祖先への感謝と報恩を信条とされた先生から私共への遺訓として大切にしたい。
祇園祭の大船鉾、一五〇年ぶりに再興
翌十七日は、午前中、名古屋の中日文化センターで「夏の皇室行事」について講述。ここの来聴者も熱心な方が多く、秋(十月十六日)と冬(一月十五日)にも出講を予定している。
その午後、祇園祭(前祭)の京都へ向かった。午前中に巡行を終えた山鉾の解体と、夜行われる神幸祭を拝観したかったからである。
三十三基の山鉾は、夏にはやりがちな疫病を払うために、町内を巡行する。そのうち、十七日の前祭に出た二十三基が、四条烏丸近辺の山鉾町へ戻り、飾物などを丁寧に外していく。それを池坊短大の東側に立つ鶏鉾の脇で見せて頂いた。
その途中でふと思い付き、短大の西側に廻ったところ、丁度「大船鉾」の建て初めを見ることができた。この大船鉾は元治元年(一八六四)禁門の変で消失していたが、今年から再興されることになり、二十四日の後祭時に、十基出る山鉾巡行の殿(しんがり)をつとめる。
何しろ一五〇年ぶりの復元であるから、四条町大船鉾保存会の松居理事長をはじめ、町内外の関係者多数の見守るなか、大工・鳶職などが図面を確かめながら木組みの船形を作るのに二時間ほどを要した。全体の飾り付けには何日もかかるという。
八坂さんの祭神を奉ずる神輿の往還
その後、研究仲間のM氏と夕食をとり、夜八時ころ四条京極の御旅町近くへ行くと、すでに道路の両側に何重も人垣ができていた。
そこへ、八坂神社から神宝類を運んできた宮本講社の行列が到着。ついで御神体を奉戴し氏子地域を巡幸してきた四基の重い神輿が、御旅所の前で威勢良く何回も差し回され、その都度、観衆から大歓声があがった。
しかし、中御座(素戔嗚尊)・東御座(櫛稲田姫命)・東御座(八柱御子)・東若御座(姫命の分霊)の神輿が順番に御旅所へ納められる際、屈強な担ぎ手の青年たちも、取りまく見物の人々も、神妙に拝礼する姿に感動を覚えた。
こうして一切が終わったのは夜中の十一時半すぎ。それまで三時間余り立ちっ放しで、七十二歳の老体には少しこたえたが、勇壮な祭礼から元気をもらった。ただ、安置された神輿を拝み無言で帰れば心願が叶う、と言われているけれども、八坂神社の神主さんに会い、思わず挨拶をしてしまった。
(七月十八日記)
それから一週間後の二十四日が後祭である。かつて後祭にもあった山鉾の巡行は、やむをえない事情により五十年前から前祭と一続きにされていたが、今年から再び分けて行われる。
そこで、朝早く上洛し、京都産大で最後の受講生(現院生)のG君と市役所の前で再興された山鉾の巡行と、昭和四十一年に始められた花笠の巡行も、ゆっくり拝観した。見事に復元された殿(最後尾)の大船鉾が勇姿を現し、御池通から河原町通への辻廻しには、万雷の拍手があった。
その午後、京都産業大学の評議員会に出席してから、日本文化研究所で九月十六日の研究発表会につき協議、また皇居勤労奉仕を計画中の学生たちと話し合った。
なお、神輿四基は、夕方五時に四条の御旅所を発ち、氏子地域を廻って八坂神社へ還幸するが、小田原まで戻るため拝観することができなかった。
ちなみに、十数年前に刊行された角川選書の『京都の三大祭』が、最近角川ソフィア文庫として出版された。この機会に可能な限り手を加えたが、それを通じて新たに学びえたことも少なくない。
(七月二十五日記)