(49)ソロモンの恩人と大垣北高の友人との出会い



人生には不思議な出会いがある。まもなく満七十四歳の私にも、重要な意味をもつ出会いが歳の数より遙かに多い。そのうち、最近久しぶりに会った恩人と、本日(10月30日)大きなニュースとなった友人との出会いを略述しよう。

ソロモンで活躍する恩人の佐藤行雄さん
その一人は、佐藤行雄さんである。今月二十五日(土)靖國神社で「全国ソロモン会」主催の慰霊祭と懇親会があり、そこへ南洋のソロモン共和国から来て下さった同氏と、数年ぶりに会うことができた。

ちなみに、全国ソロモン会とは、昭和四十年(一九六五)十月、大東亜戦争中にソロモン方面で戦ってきた陸海軍の将兵たちにより結成された戦友会である。戦後七十年を経て、多くの戦友会が解散を余儀なくされたが、幸い本会は、遺族や一般の有志も入会し、むしろ活発になっている。

それは数年前から浅草寿仙院の御住職崎津寄光氏が事務局長、また、戦史に精しいジャーナリスト笹幸恵さんが広報担当を引き受けたおかげで、毎年JYMAの学生有志らと共に遺骨収集を続け、また会報の『ソロモン』も年二回発行している。

私がこの会を初めて知ったのは、昭和四十七年である。その正月早々満三十歳で戦死した父(所久雄)の戦地を何とか訪ねたいと思い立った私(三十歳)は、偶然、NHKのニュースで「この七月、全国ソロモン会の戦友が現地へ遺骨収集に行く」ことを知り、当時の事務局長浜崎積三氏(団長)に頼み込み、途中(ガダルカナルのホニアラ)まで同行することを許された。

しかし、父の戦地はガ島とブーゲンビル島の間にあるニュージョージア島(ムンダ)であり、そこには単独(大垣の遺児説田君と二人)で行くほかない。と心細く思っていたところ、『ソロモン探査紀行』の著者足立英雄氏(三十七歳)などから、現地在住の佐藤行雄氏(三十四歳)を紹介され、同氏のおかげで非常な幸運に恵まれた。

それは、父の戦死したムンダのジャングルで、現地人が拾いあげた飯盒の内蓋に「所」と刻まれていることを、佐藤氏が見つけて下さり、その翌日(七月二十七日、奇しくも父の命日)に遺骨の一部を拾うことができたのである(精しくは拙著『靖国の祈り遙かに』神社新報社参照)。それ以来、目に見えず声が聞こえなくとも、霊魂はゆかりの人々を守り導いてくださると確信している。

この恩人佐藤行雄さんは、昭和十三年北鎌倉に生まれ、海外雄飛を志してガ島に本社のある商事会社に務め、ムンダに近いロビアナ島を治める大酋長の孫娘と三年前に結婚しておられた。その誠実さ勤勉さにより現地の人々から絶大な信賴と尊敬をえて、ソロモンが英国統治より独立し発展することにも多大な貢献をされた。

やがて、平成十三年(二〇〇一)ソロモン共和国の国会議員に選ばれた。その任期中に生じた部族紛争を必死の覚悟で解決したり、日本との関係向上に尽力された功績は極めて大きく、今もソロモン特命大使を務めておられる。

その佐藤さんが、今回も懇親会で素晴らしいスピーチをされ、それに続いて私も少し御話をさせて頂いた。さらに終了後、佐藤さんの常宿(新橋のホテル)まで同行し、あらためて率直な意見交換をした。その際、とくに近ごろ日本で失われてしまった共助モラルがソロモンには残っており、それを大切にしていきたい、といわれたことに胸を打たれた。

恩賜賞・文化勲章に輝く中西重忠さん
もう一人は、中西重忠さんである。本日(十月三十日)文化勲章に選ばれたことが公表された。テレビや新聞は、先日ノーベル賞の決まった大村智氏と梶田隆章氏ばかりクローズアップするが、中西さんも十数年前からノーベル賞(医学部門)の有力な候補者であり、今年正月「御講書始」で御進講をしている(宮内庁ホームページや「藝林」今秋号に全文掲載)。

しかも、とりわけ嬉しいのは、中西さんが岐阜県立大垣北高の同期(十一期)であり、私にとって恩人だからである。個人的な想い出で申し訳ないが、私は昭和三十二年(一九五七)春、田舎の中学校から西濃地域で一番と称される大垣北高へ辛うじて入った。そして偶然同じクラス(C組)で、席も隣(五十音順で所の次が中西)になったのが、興文中学から来た抜群の秀才重忠君にほかならない。

彼は体が大きく、入学早々から先生方をも驚かせる秀才(むしろ天才)であったが、実に気さくで明るく、誰にも親切であった。特に英語と数学の不得意な私は、先生に当てられそうになると、背後の彼が小声でヒントを教えてくれるので、何とかピンチを切り抜けることができた。

また、私が教科書以外の本を買えないような状況にあることを察して、大垣市立図書館で司書をされていた彼の父君に頼んでくれたのか、図書館へ行くと特別に何冊も借りられる手続きを取ってくださった。そのおかげで、私は様々なジャンルの本を毎週借りて返却期間内に読み通す習慣が身についた。

さらに、彼は早くから医学を志し京大へ行くことを決めていた。しかしながら私は、二年次の秋、台風で水浸しになった石灰の発火により納屋が全焼して全農機具を失い(本屋は夜中に駆けつけた近所の人々の懸命な消火活動で類焼を免れたが)、進学を諦めかけていた。

ところが、中西君は「奨学金をもらえば大学くらい行けるよ。僕も親が苦労しているので、合格したら矢橋謝恩会の奨学生に応募する」と教えてくれた。そこで、三年になってから担任の竹中先生に相談すると、日本育英会の奨学金は返済を要するが、君は母子家庭だから岐阜県の福祉奨学金をもらえるはず。ただ矢橋謝恩会は理系に限っているので、文系志望の君は無理だ」と言われた。

よって、ともかく自宅から通学の可能な名大か岐大を受ける決心がつき、育英会と岐阜県に奨学金の申請を出した。しかも、念のため、矢橋謝恩会は本当に駄目か、校長の斉藤先生を通して尋ねたところ、「校長の強い推薦があれば選考対象にする」との返事があり、幸い全額給付の奨学金を四年間頂けることになった。これも彼の一言がなければ、思いも付かなかったことである。

その後、全く別の道に進んだ彼とは殆ど会えなかったが、昭和五十六年春から京都産業大学へ勤め始めた私は、しばらくして京大医学部の研究室を表敬訪問した。その時驚いたのは、いつもドアが開け放してあり、次々と入ってくる若い研究者にテキパキと指示する凜々しい姿である。

そして、「僕は京大や米国の先生から学んだことを基ににして、自分なりの方法論を考え出し、それを若い連中に伝えようとしている。研究成果は僕の名前で公表されることが多いけれども、僕は神輿に乗っているだけで、本当に偉いのは担いでくれている若い連中なんだ」と笑顔でいう中西博士の言葉が、今も忘れられない。

ちなみに、彼は平成九年度に日本の研究者として最高の栄誉である日本学士院賞・恩賜賞を受賞し、同十八年から文化功労者に選ばれ、さらに文化勲章が親授(十一月三日に天皇陛下から直接授与)されることになったのである。

しかも、叔父の中西香爾氏(コロンビア大学教授で天然物有機化学の世界的権威)は、名大理学部の出身であり、東京教育大学助教授時代に、今秋ノーベル医学賞に決まった大村智氏を指導し東京理科大学大学院への進学を勧めたことが、やがて大きな飛躍につながったという。人の縁(えにし)は、どんな小説よりも面白い。

(十月三十日夜半 所功 記)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)