(62)大垣出身の岡田朝太郎博士に学ぶこと



三月二十日(日)、大垣市のスイトピアセンターを会場として、汗青会主催の第六回公開セミナーが行われた。この二十日は、昭和六〇年(一九八三)、終生の恩師稲川誠一先生が満五十九歳三ヶ月で急逝された御命日である。それ以来、毎年この日に、先生の教えを受けた有志が集まり、数年前まで先生の御遺宅で細々と勉強会を続けてきたが、近年は大垣駅の近くで公開の「稲川誠一先生に学ぶ集い」を催している。その世話役は、橋本秀雄氏(汗青会七期生)が三十年余り、誠心誠意つとめている。

稲川先生、転任の真相判明
この公開セミナーも、昨年までは、稲川先生の御事績に直接関係のある話題を中心としたが、今年から「稲川先生が目指されたもの」を学ぶという趣旨で、対象をひろげることにした。その一つは、横山泰氏(稲川先生の同志村瀬一郎教諭の教え子で元岐阜高校教諭)が、「吉岡勲氏の遺稿『吉田松陰先生と美濃』に学ぶ」というテーマで、吉岡先生が昭和十九年二十九歳の時に書かれた遺稿(昨秋『藝林』第六十四巻第二号に掲載)の要点を紹介しながら、自身の実地調査もふまえて、筆者の鋭い見識を評価してくれられた。

しかも、その前置きで、昭和三十一年春、稲川先生から吉岡先生あての書簡数通を通して、稲川先生が東大の大学院修了後、柳田國男民俗学研究所の助手等を経て、御両親に孝養を尽くすために岐阜へ戻られ、初め私立の鶯谷女子高校に勤めてから県立の大垣北高校へ転任されるに至った真相を明らかにされたことは、まことにありがたい。それが翌三十二年春に実現して、北高に入学早々の私共は先生に出会うことができたのだから、まさに人生とは不思議なものと、更めて感謝するほかない。

岡田朝太郎博士の主な歩み
もう一つは、私(汗青会一期生)が「大垣出身の岡田朝太郎博士と高山出身の牧野英一博士に学ぶ」という題で話した。ただ、時間の制約もあり、また牧野先生については昨年十一月高山で講述した要点が『ぎふの教育』一七六号(三月一日発行)に掲載され、それを全員に配布してあったので、専ら岡田先生につき知りえたことを申し上げるに留めた。

岡田朝太郎博士は、慶応四年=明治元年(一八六八)現大垣市の船町で誕生された。家は魚屋さんで、祖父多七が早世し、娘さく子が垂井の表佐から平八を養子に迎え、その間に恵まれた長男である。

父の平八は、農家の出ながら、剣道に秀でて士分に列せられた。しかし家計は貧しく、母さく子が川魚の行商をして支えたという。しかも、向学心の強い朝太郎は、十五歳の時に上京し、学資を稼ぐため、硯友社に入って小説などを書き、大学予備門(一高の前身)から東京帝大の法科大学に進み、法典編纂顧問(お雇外国人)ボアソナード博士のフランス語通訳アルバイトもしている。

やがて明治二十四年(一八九一)、仏法科を優秀な成績で卒業し、まもなく講師より助教授として刑法の講座を担当する傍ら、大著『日本刑法論』を著した。ついで同二十九年から四年間、ドイツ・フランス・イギリスに留学し、帰国して教授となり、同三十四年(一九〇一)法学博士の学位を授けられた。その頃の受講生が高山出身の牧野英一であり、まもなく岡田教授のもとで刑法を担当し講座を受け継いでいる。

さらに岡田博士は、日露戦争直後の同三十九年から清国政府に招かれて、近代的な刑法等の編纂に尽力した。辛亥革命後も中華民国政府の依頼に応じ、北京大学で刑法を講ずる傍ら、古代中国のすぐれた美術品の収集にも努めている(のち奈良帝室博物館などに寄贈)。

大正四年(一九一五)に帰国して帝大を退き、明治大学や早稲田大学で刑法を講じながら、晩年まで外国刑法の翻訳に力を入れ、また趣味の川柳研究家としても高く評価された。晩年は神奈川県の葉山に住み、昭和十一年(一九三六)十一月、六十八歳で永眠している。

岡田博士の郷里に対する貢献
この岡田博士は、上京して勉学中、父平八が病没すると、魚屋で働いていた田中辰二郎氏に祖母と生母の面倒を頼んだ。やがて東大に奉職すると、母を東京へ迎えたのみならず、世話をしれくれた辰二郎の子を家に預かって面倒をみるなど、恩返しに努めている。

また明治三十五年(一九〇二)七月、郷里の大垣に東大と京大の教授八名を招き、三日間にわたり一般市民のための法学講演会を開いている。

しかも、そのころ岐阜県から出て東京で活躍中の有志二十六名(数学者高木貞治、仏教学者南條文雄、歌人下田歌子など)を発起人として「濃尾学生宿舎」の設立趣意書を作り、義援を呼びかけている。それは、日露戦争への対応(強硬論の七博士を支援)や清国・民国への十年近い出張のため、大巾に遅延したが、帰国翌年の大正五年(今から百年前)「濃飛学寮」として、大垣藩主戸田子爵邸跡(文京区小日向)に建設された(東京大空襲で焼失したが、昭和三十四年「岐阜県学寮」として再建され、今も大きな役割を果たしている)。他にも養老鉄道の創立に尽力するなど、郷里のために貢献された功績は大きい。

(HPかんせいPLAZA、三月二十五日 所功 記)

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